2012年4月23日月曜日

落ち着きのない子の見方、働きかけ方


ほどき心理相談所

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学苑社

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目次

第1章 はじめに

落ち着きのない子(ADHD)/ 

第2章 落ち着きの見方

第1節 落ち着きの現れ方

注意の現れ/注意の基になる落ち着き/落ち着きやすいとき/いつも落ち着かない子/ときには落ち着く子/落ち着かせる働きかけの不統一/落ち着きで大切なこと/言うことを聞く子

第2節 落ち着きの種類

元気がないとき/刺激がないときの落ち着き/集中するときの落ち着き/待機するときの落ち着き/ゆったりとした落ち着き/我慢の落ち着き/頑張るときの落ち着き/活発だけど冷静に対応できるときの落ち着き/精神の活発さと落ち着き/適度な活動水準

第3節 落ち着きと文化

落ち着きが必要な学校/歴史的に見ると/落ち着きの利点/落ち着きのなさの利点/3つの精神的活性/状況に合った活性化を

第4節 落ち着きのなさと発達

落ち着かない子の発達。乳児期/落ち着きのなさのパラドックス/うまく行かないサイクル/幼児期の落ち着きのなさ/児童期の落ち着きのなさ/勉強への影響/落ち着きをなくす集中力/無気力と落ち着きのなさ/思春期の落ち着きのなさ/イライラが悪化させる/活発さが裏目に/落ち着きなさのレベル

第5節 落ち着きを促す

落ち着きのなさと情報処理能力/言葉の遅れと落ち着きのなさ/落ち着きを引き出して言葉を発達させる/落ち着きを得るための目標/刺激のない環境で落ち着く/刺激があっても落ち着く/軽やかに笑う/ストレス・マネージメント/自分で力を抜く/ADHDの診断/その他の条件/ADHDと診断されない場合

第3章 落ち着きを促すための働きかけ ここをクリックしてください。

第4章 あとがき ここをクリックしてください。

第1章 はじめに

落ち着きのない子(ADHD)

 落ち着きのない子が増えているといいます。食品添加物とか妊娠中の喫煙とか銅の摂取だとか、テレビやテレビゲームとか、いろいろな原因が考えられています。ここでは、食品とか環境の問題などについては触れず、落ち着きのない子の落ち着きを引き出すために私たち自身ができる日常的な働きかけに関係することがらに絞って話しをしたいと思います。

 

 基本的に理解していただきたいのは、単に「理解すること」が不足しているために落ち着きがない問題が起きてくるわけではないということです。つまり、落ち着かなければいけないと「わかっていない」から、落ち着けないというわけではありません。よくわかっていないと思われる乳児でさえ、落ち着いている子は落ち着いていますし、ここは落ち着かなければならないと「わかっている子」でも落ち着かないことがあります。ですから「わからせる、理解させる働きかけ」も大切ですが、それだけでは不十分ということになります。

 

 また、次に理解していただきたいのは、「落ち着く気がないから落ち着かない」わけではないということです。確かにはしゃいでしまうと、「ええい、落ち着かなくてもいいや」という気持ちになりがちです。しかし、少なくとも「落ち着いて、まじめに勉強するぞ」と自分に十分言い聞かせて勉強を始める子どもでも、落ち着かない子は、勉強の途中でそわそわしたり気が散ってしまったりします。ですから、叱って十分に反省させて落ち着くようにさせるといった働きかけだけでもうまくはいかないのです。

 

 さらに子どもは動きたくて動いているとは限らないということです。動きたくて動くときももちろんありますが、どちらかと言えば、動いてしまうから動いているのです。つまり、理解や意志や欲求とは、独立した形で落ち着きのなさが現れるのです。ですから、人が説教したり、自分で落ち着こうと思っても、なかなか落ち着けないのです。

 

 だからといって、落ち着きのない子、ADHDと言われる子に対する働きかけはないのかというとそうではありません。それに、落ち着きのなさは、脳の何らかの機能障害だから、薬物によって治療するしかないというわけではありません。脳によって、私たちの思考や行動は支配されています。逆に、刺激を受容し、思考や行動して得られる経験によって脳は刺激され変化します。ですから、私たちの経験の仕方、特に情緒的な経験の仕方を変化させることで、脳を変えていけると思っています。私は医者ではないので、薬を使って治療するという行為はできません。日ごろは、子どもの身体や頭の使い方に焦点をあてて働きかけを行っています。日常的にこまめにやっていただくと効果のある働きかけがあります� ��最近はやりの脳トレと同じように、落ち着きのない子に合った脳トレをすることで、落ち着きのない子の脳を変え、ひいては行動を変えていこうではありませんか。

第2章 落ち着きの見方

第1節 落ち着きの現れ方

注意の現れ

 

 その3歳の男の子は、テーブルの上で車を走らせ、車がテーブルの端で止まったのを見て、ジッとその車を見つめていました。それまで、車を走らせてテーブルから落ちるのを楽しんでいたのだけれど、車が落ちないで止まったので不思議に思ったのかもしれません。

 

 しかし、以前の彼であれば、ジッと見ることはなかったでしょう。以前の男の子は、ちょこちょこと動き回り、車を持ったとしても、すぐに興味を他に移してしまっていました。他のオモチャを持ったり、投げたり、散らかしたり、まとまった遊びは出来ませんでした。テーブルの上に車を走らせ、テーブルから落ちるのを何回も繰り返すこと自体が珍しいことであり、ましてや、止まった車に気を止めるといったことは初めてのことでした。

 

 この男の子は、2歳半ごろに言葉が少ししか出ない、会話にならない、ということで相談に乗ることになった子です。パッと見て落ち着きのなさがわかりました。ちょこちょこと動き回っているのです。棚の上のオモチャを求めたので取ってあげても、いくつかのモノを取り上げて見ては、パッパッと捨ててしまいます。声もキャーキャーといった感じで何か言葉らしき声を出しているのですが、人に向かって話す気はなく、気分が高揚した感じで発声しているという感じでした。

 

 絵本を自分で見ることは多少あったのですが、母親が読んであげようとすると逃げてしまいます。こちらが相手をしてあげようとしても、追いかけっこみたいになってしまいます。このような子どもは、活発には人と遊べるようでしたので、落ち着きを引き出すことが大切と思われました。

 

 そこで、いろいろと落ち着きを引き出す働きかけについて、説明をしたのです。

 

注意の基となる落ち着き

 

 母親には、手ブラブラと足曲げを説明しました。手ブラブラは、2005103日、4日のブログを見てください。足曲げは、109日のブログを見てください。手ブラブラは、手を持って小刻みに揺らすだけの簡単な働きかけです。子どもの腕や肩がクタクタした感じで揺れるようになれば、力が抜けてきたことになります。長く続ける必要はありません。2−3秒ぐらい揺らしては止め、揺らしては止めします。それをまた、1分か2分ぐらい続けるのを1回とし、暇を見つけては繰り返しやるのです。そうすると、力が入りがちな子も力が抜けてきて、次第にゆったりできるようになります。

 

 足曲げの方は、子どもを床に寝かせ、両足をゆっくりと曲げ伸ばしして、腰の力を抜く働きかけです。始めは眠る前にやるといい働きかけです。これは、1回につき5分ぐらいできるといいでしょう。

何日か無理せずに続けていると次第に足の力が抜けてくるようになります。

 

 この男の子の場合も、次第に落ち着けるようになり、イスにすわらせられるようになってきます。そして、本を読んであげると次第に聞くようになり、言葉のまねをするようになり、普段でも聞き取れる言葉が増えてくるようになりました。

 

 力が抜けて落ち着いてくると、何かに注意を向けることも持続するようになるのです。力がある程度抜けるということが、落ち着きの基礎にあり、落ち着きが出てくることで、注意も持続するようになると言えます。

落ち着きやすいとき

 誰にでも、落ち着きやすいときがあります。例えば、仕事が終わって家で夕食を食べるときは落ち着きやすいとか、眠くなったときには落ち着きやすいということがあります。いつでも落ち着きがないという場合は、大変困りますが、少しだけは落ち着くときがあるというのも、全体として落ち着きがないことが多い場合は、やはり困ります。

 

 子どもの言葉の相談や友達とうまくいかないなどといった相談がある場合には、大概、落ち着きがありますか、と母親に質問します。すると、家では落ち着いているという場合があります。しかし、家で落ち着いていても、案外、保育園や幼稚園では落ち着きがないことがあるものです。このことに関して、家では落ち着いているのに、保育園や幼稚園では落ち着きがないというのは、保育園や幼稚園での指導が悪いのだと憤慨される親御さんもいます。これは特に指導が悪いから落ち着きがなくなるということではないのです。もっとも中にはひどい保育士や先生もいないわけではありませんから、指導が悪い場合がないとは言えませんが、保育園や幼稚園では大勢の人がおり、家よりは騒がしいものなのです。そ� ��ために、落ち着きがなくなりやすいわけです。これはいかんともしがたい問題で、静かな環境に置けばいいというのではなく、刺激が多くても落ち着いていられるようにすることが大切かと思います。

 

 やはり、働きかけは、まず身体的にリラックスできるようにするということです。

いつも落ち着かない子

 落ち着くときもあるけれど、必要なときに落ち着かないことがある子について説明する前に、いつも落ち着きがない子について説明しましょう。

 

 いつも落ち着きがない子とは、文字通りいつも落ち着きがない子です。食事の場面でもすわっていられません。人の話をジッと聞くようなことはできません。さあ、本を読んであげるぞ、と言ってもサーと逃げてしまいます。眠る前も落ち着きがなく走り回っていることもあります。走り回っているかと思うと、サッと布団に入って眠ってしまいます。徐々に眠くなり、次第にごろごろしておとなしくなり、眠りにつくのではないのです。それこそ、走っていたかと思うとコテンと眠りに入るのです。眠さの限界まで身体が活発で、限界に達すると眠ってしまうという感じです。

 

 このような子を見ると、大概は筋肉がパンパンに張っていたりします。常に筋肉を使っているので鍛えられたとも考えられますし、そういういつも緊張している筋肉のために落ち着きがないとも考えられます。それでも、幼児期はまだ、筋肉をやわらかくすることもなんとかできるのですが、小学生になっても活発な子は、筋肉もかなり固くなってなかなかやわらげることが難しくなります。ただ、不活発になってくる子もいますので、全体的に見たら、落ち着きが増すと言える子どもが多いものです。

 

 落ち着かせるための方法は、手ブラブラとか足まげができるといいのですが、拒否されることもあるでしょう。逆接的ですが、くすぐって笑わせてむしろ気分を盛り上げてからホッとする方法がいい場合があります。瞬間的にたくさんくすぐって笑わせては、サッと止めてホッとさせるというものです。そうしながら手ブラブラをして次第に肩の力が抜けるようにするといいでしょう。

ときには落ち着く子

  落ち着きのない子の中には、全体としては落ち着きがないけれど、ときには落ち着く子もいます。落ち着くときがあるからいいではないかと思う人もいれば、集団の中で落ち着けないことが多いものですから、もっと落ち着いた方がいいと考える人もいます。

 

 どんなときに落ち着くかと言うと、

 

 家のような慣れた場所にいるとき

 家のように静かな場所にいるとき

 好きなことをしているとき、好きなものを食べているとき

 刺激が少ない場所

 欲求・要求が満たされる状況

 静かな活動をするとき

 

 家のように慣れた場所では、安心感も出て、ゆったりしやすくなり、おとなしい場合があります。しかし、外に出て、慣れない場所にくると、落ち着かなくなってしまうという場合があります。慣れた場所でも、違った人がやってきたり、何か行事があっていつもと違う雰囲気になると、落ち着きがなくなってしまうということがあります。すると、走り回ったり、ふざけたりして困ることになる場合があります。

 

 家のように静かな場所だと、落ち着いていられる場合でも、にぎやかな場面では、うかれてしまって落ち着きがなくなったり、コントロールがきかなくなることがあります。刺激があると緊張や興奮が高まってしまうということです。外に行くと、親を振り向かずにサーと走って行ってしまう、ということがあります。人がたくさんいる場所で走りまわってしまって、とても外へ連れていけないということもあります。

 

 好きなことをしているときは落ち着いている、好きな食べ物を食べるときは落ち着いているけれども、他のときには落ち着きのない子がいます。他の人に合わせられない子どもです。電車遊びやプロックなど自分の好きな遊びには集中するのですが、それ以外では、自分の行動をコントロールできなくなります。我慢できないタイプであったり、人のもとで安心感を感じられないタイプです。

 

 刺激が少ないところでは落ち着いていられるけれど、刺激が多いと落ち着きがなくなってしまう子がいます。これは、昨日の静かな場所だと落ち着いている子とどこが違うかと言うと、静かでも、オモチャが多いとか、モノが雑多に置いてあるとか、カーテンが揺れるといった視覚的刺激で落ち着きがなくなってしまうという点です。視覚的刺激でも聴覚的刺激でも落ち着きがなくなるということです。

 

 自分の思うようになるときには、落ち着いているけれども、思うようにならないと不満が出てきて、落ち着きがなくなる子がいます。好きなことをしているときは、落ち着いている子と似ています。しかし、このタイプの子どもは、特に好きな活動をしていないときにも、自分の好きなように行動でき、だれにも邪魔されない場合には落ち着いていられる子どもということです。人との対立に敏感に反応すると言えます。

 

 静かな活動のときには、落ち着いていられるけれども、活発な活動、例えば、かけっこといった活動をするときには、落ち着きがなくなってしまう子どもです。つまり、身体的運動をすると、適度に活動できなくて、過度に活発化してしまうのです。着席しているときにはおとなしいのに、動き出すと過度に活発化してしまうのです。外からの刺激よりも、内的な身体運動の刺激に過度に反応してしまうといったらよいでしょう。

落ち着かせる働きかけの不統一

 落ち着くときもあれば、落ち着かないこともある子の場合、いつも落ち着かない子よりも、まわりの人の意志統一を得ることが難しいことがあります。いつも落ち着かないのであれば、誰が見ても落ち着かせなければならないとわかるものです。しかし、落ち着くときもあれば、落ち着かないこともある子では、落ち着かせるための働きかけが必要であると、誰でも思うわけではありません。

 

 例えば、家のような慣れた場所では落ち着いている子の場合、家の人は、子どもを落ち着かせる必要を感じません。特にあまり出歩かない家庭の場合は特にそれが言えます。家の人は、子どもが落ち着かない状態を知る機会がないことになります。しかし、家ではおとなしくても、家族で出かける機会が多い場合、外で落ち着かなくなるわけですから、やはり落ち着かせる働きかけが必要と家の人も感じます。ショッピング・センターに行ったら、どこかへ走っていってしまったとか、よくはしゃいでしまうといったことが起こると、家の人も落ち着きがないなと感じるものです。

 

 さて、家で落ち着いていて、家の人も落ち着かせる必要を感じない場合、保育園や幼稚園で落ち着かないで困っていることを伝えると、それは大変何とかしなければと感じる人もいれば、落ち着かないなんて信じられないと信じない人もいれば、保育園や幼稚園での対処の仕方がまずいのだと保育園や幼稚園への不信を募らせてしまう人もいます。このような最後の例がトラブルをおこしやすい場合です。家の人は、子どもを落ち着かせるための働きかけに理解を示してくれませんし、自分の子がトラブルメーカーであると主張する保育園や幼稚園に対して反感を持ちさえするのです。

 

 好きなことをさせていれば落ち着いている子の場合も、親が子どもの嫌がることをやらせない家庭の場合、家では落ち着いていますから、慣れた場所では落ち着いている子と同様な問題が起きてきます。しかも、この場合は、外でも子どもの好きにさせて、それほど問題が起きない場合がありますから、結局、家の人は子どもが落ち着かない場面に遭遇しないことになり、保育園や幼稚園での対応の仕方に対して不信感を抱く場合があります。

落ち着きで大切なこと

 落ち着きで大切なことは、1人で自分の好きな活動に集中できるだけでなく、人との関わりでゆったりとつきあえる、ということがあります。人とのつきあいでは、自分の思いを主張するだけでなく、人の思いも受け入れることが重要です。ときには、自分の思い通りにならないことがあっても、受け入れることができなければなりません。この場合、我慢して受け入れなければならないこともありますが、快く自分とは違う意見を受け入れ、自分の行動を修正できることも大切です。

 

 例えば、自分が電車のオモチャで遊ぼうと思っているときに、人がママゴトをしようと言ったとき、きちんと話を聞いて、それも面白そうだと人に合わせて、電車遊びをやめて、ママゴト遊びに移行できることで、人とのつきあいがうまく行きます。ところが、あくまで電車ごっこがやりたいと自分の思いを変えられなくて、1人で電車遊びを続けるとしたら、確かに落ち着いていますが、孤立してしまいます。また、みんなが自分の意見を取り入れてくれないと不満に思って腹が立ってしまえば、乱暴になり、落ち着きがなくなるということになります。

 

 ですから、家で落ち着いているのに、保育園や幼稚園では落ち着かないという場合、人の働きかけを容易に受け入れられるかどうかを見ることが大切です。家庭で落ち着いているとは言っても好きなように振舞っているのか、人の働きかけを受け入れてなお落ち着いていられるのかを確かめることが大切です。人の言うことをきちんと聞いて、自分のやろうとしていることを修正できるのであれば、保育園や幼稚園で落ち着きがないのは、刺激が多すぎるという問題の可能性が出てきます。

 

 家庭でもけっこうにぎやかだけど落ち着いている、しかも、人の言うこともよく聞く、しかし、保育園や幼稚園では落ち着かないとなると、どう考えたらいいでしょうか。

言うことを聞く子

目が 家ではおとなしく言うことを聞き、保育園や幼稚園では落ち着かないという場合があります。この場合には、二つの可能性が考えられます。

 

 1つは、家庭でのしつけが厳しい場合です。もともと落ち着きのない子でも、厳しくされれば我慢して言うことを聞くことがあります。かなり落ち着きのない子の場合、厳しく叱ってもよけい混乱するために叱るばかりではだめだということになります。しかし、厳しく叱られて我慢できる子どもは我慢してしまいます。すると、家で我慢しておとなしくしているわけですから、それほど厳しくないところでは、本来の自分を取り戻し落ち着きがなくなったり、むしろ我慢の末に貯まったストレスを発散させるために余分に落ち着きがなくなったりします。つまり、保育園や幼稚園に行っている子どもは、厳しくしつけられる家では、おとなしく人の言うことに従うのに、保育園や幼稚園では、落ち着きがなくなり、� ��の指示も受け入れられず、わがままになり、乱暴になり、キレやすくなって、みんなとうまくやっていけなくなります。

 

 そこで、このような子どもの場合どうしたらいいか、ということですが、通常起こることは、「保育園や幼稚園の指導が悪い」と親は思い、保育園や幼稚園の対応に不信や反感を抱くということです。保育園や幼稚園でも親の協力が得られずに困ってしまうことになります。なにしろ親が何か言えば、子どもは言うことを聞くのに、保育園や幼稚園では、保育士や先生の言うことを聞かないわけですから、保育士や先生のやり方が悪いということになってしまうのです。しかも、子どもが乱暴になり困るというようにいかにも子どもが悪いような言い方をせざるを得ないので、親としては自分の子の悪いことを言われたと腹を立てることになります。自分たちのやり方がうまくいかないのを棚に上げて、よく我が子の� ��口を言うな、という気持ちに親としてはなるわけです。

 


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 厳しくとも、しっかりしつけるのを良しと考える親としては、保育園や幼稚園でもきちんとしつけて欲しいと望みます。それでは、保育園や幼稚園で厳しくしつけたらうまく行くかというとそういうわけではありません・・・・。

 

 家で厳しくしつけられて、家では言うことを聞いても、保育園や幼稚園では落ち着きなく言うことを聞かない子の場合、保育園や幼稚園でも厳しくしつけたらいいかと言うとそうではありません。確かに、厳しくしつけられて、保育園や幼稚園でも言うことを聞くようになる子はいるでしょう。その場合には、しばらくしてよけい荒れてくるか、逆に元気のない無気力な感じになっていくかのどちらかになる危険性があります。

 

 一番多いのは、家と同じように厳しくしつけても、不機嫌になってしまいさらに乱暴になったり、落ち着きがなくなってしまう場合です。それまで落ち着きのなさを大目に見ていた保育士や先生が厳しくすれば、子どもにとってはそれまで持っていたイメージと違うわけですから、そんなはずではない、と混乱し、反発したり、不機嫌になったりするわけです。さらに家でも厳しくしつけられ、保育園や幼稚園でも厳しくしつけられれば、子どもにとってはホッと息をつけるところがなくなってしまうことになり、これではたまらないと我慢できなくなります。すると、保育園や幼稚園でさらに落ち着きがなくなるだけでなく、家でも落ち着きがなくなってきます。

 

 それまで、言うことを聞く子(2)で好きに出来ていたからこそ、家での厳しいしつけを受け入れられていたとも言えます。息抜きができる場があったからこそ、厳しさを我慢できていたとも言えます。ですから、好きにできる場や息抜きができる場がなくなれば、ストレスがたまりますから、今まで我慢できていたことも我慢できなくなります。そのために、家で親に厳しく言われて言うことを聞いていた子どもも、言うことを聞けなくなってしまうことがあるのです。

 

 そうなるとまたまた問題が起きてきます。せっかく家で言うことを聞いていたのに、保育園や幼稚園でのしつけの仕方が悪いために、家でも落ち着かなくなってしまったではないかと、親から文句を言われることになります。時には、親から厳しくしつけてくれと言われてやったら、こんなことになってしまった、という場合もあるでしょうが、親としては下手なやり方をしたということで保育園や幼稚園を非難することになります。

 

 家では言うことを聞くのに保育園や幼稚園では落ち着かない子の場合、どうやって働きかけたらいいでしょうか。基本的には、別なやり方で落ち着かせることが大切です。家でやる厳しいしつけとは違うやり方で落ち着かせることです。我慢させて落ち着かせるのでなくて、ストレスを発散させて、リラックスさせて落ち着かせることが大切なのです。

 

 例えばどうやるのかと言いますと、くすぐり遊びをやってみて笑わせて、さらにたくさん笑えるようにして、笑った後にホッとさせるわけです。盛り上げては落ち着かせるというやり方です。これを何回か繰り返していると、子どもは遊び疲れたという感じで落ち着いてきます。すると、家で貯まったストレスを発散させると同時にゆったりとした感じにもなります。一挙両得ということになります。ただ、この働きかけにもコツがいります。笑いを高めるときに、だらだらと高めてはいけません。だらだらと高めていると、気分が高揚し、結局落ち着かない子はいつまでも落ち着かないということになります。ですから、瞬間的に笑いを高めることが大切です。ワッと攻めてギャハハと急に笑わせます。すると、急� ��笑いが高まりますから、子どもの方は楽しいのだけれども、もうたくさんと感じます。そんなときにサッと引けば、落ち着きたいと思っているときに引くわけですから、引いた後で落ち着くことになります。ポワンとした感じで落ち着くことになります。

 

 その他には、手ブラブラやギッコンバッタンしてリラックスさせるとか、腕を動かして力比べをして落ち着かせるといった方法もあります。また、いずれ説明したいと思います。

 また、落ち着きには、いろいろな種類があるということを知っておくのも大切なことです。

第2節 落ち着きの種類

元気がないとき

 落ち着きのない子を落ち着かせる場合に、考えなければならないのは、どんな落ち着きがあり、この子にはどんな落ち着きが必要かということです。思いつくものを列挙してみましょう。

 

元気がないときの落ち着き

刺激がないときの落ち着き

集中するときの落ち着き

待機するときの落ち着き

ゆったりとした落ち着き

我慢の落ち着き

頑張るときの落ち着き

活発だけど冷静に対応できるときの落ち着き

 

 「元気がないときの落ち着き」は、よくわかると思いますが、疲れていたり、眠かったり、しゅんとしょげているときなどに、おとなしくしているものですが、そんなときの落ち着きです。一般には、これは当たり前のことかと思われるでしょうが、そうでもないのです。中には、疲れているときによけい落ち着きがなく活発になってしまうということが起こる場合があります。

 

 それは、疲れてしまって抑制力まで弱まり、自分の行動に抑制が効かなくなる場合です。発達に遅れのある子どもたちを療育する場ではときどき見られる現象です。例えば、寝つきが悪い子で、普段は臆病な感じでおとなしい子がいました。夜寝られるように、たくさん身体を動かして疲れさせればいいだろうと考えて、外でたくさん歩かせたり、追いかけっこをして活発に遊び、かなり疲れただろうと家に帰ってきたら、普段より落ち着きがなくなり、走り回っているのです。そして、夜中になっても興奮した感じがおさまらず、夜遅くまで騒いでいたということがありました。

 

 普段は、ちょっと強い刺激や人の働きかけに対して、身体を固くしてひきこもる感じだったのですが、身体を思い切り使って疲れたために、かえって抑制力が失われてしまい、興奮してしまったと考えられます。日頃抑制力が効き過ぎているわけですから、ある程度抑制が取れて、活発に活動できるようになった方がいいわけですが、寝る前や夜中に興奮しては困ってしまいます。

 

 普通の場合でも、日頃おとなしい人が仕事をたくさんして疲れているときに、やたら喋り出すということもあります。そんなにジョークを言わない人が疲れたときに、かえって陽気にジョークを話し出すといったこともあります。

 

 ともあれ、元気がなくて落ち着いたように見えるのは、別に悪いことではなく、むしろ望ましいと言えますが、いつも元気がないのであれば、もっと活発になるように考えた方がいいでしょう。

刺激がないときの落ち着き

 何もしていないときに落ち着いている子がいます。どちらかと言うと、刺激がなくて適度に活動が保たれている状態です。刺激がないときには、自分のペースで活動できるのです。自分のペースで活動ができれば落ち着いていられるのです。

 

 このような落ち着きは、刺激があると乱されることがあります。刺激に対して過剰に反応する場合もあれば、刺激に対してペースを合わせられなくて落ち着かなくなる場合があります。刺激がなくて、落ち着いているので、刺激を与えないで、落ち着きを維持するというやり方があります。静かな場所や狭い場所で勉強するといった工夫をすることで、勉強や作業に集中できるようになります。

 

 刺激がない場所で落ち着けても、刺激があったり、人のペースに合わせなければならないと、イライラしたり、興奮したりして落ち着きがなくなってしまいます。ですから、刺激があっても、人との交渉をしつつも落ち着けるようになることが望ましいと言えます。

 

 また、刺激があると落ち着かなくなる人は、活動すること自体が刺激となって落ち着かなくなることがあります。例えば、計算しなければならないときに、「5と6を足して・・」などと考えているとイライラしてきて、頭がまとまらなくなってしまうこともあるのです。

 

 これではやはり困ってしまいます。刺激を少なくして落ち着いていられるようにしようとするだけでなく、積極的にリラックスできるようにしていって、刺激があってもリラックスし、物事に集中できるようにすることが大切です。

集中するときの落ち着き

 あることに注意を集中して、落ち着くことはすばらしいことです。何か仕事や勉強をする場合にも、精神を集中させることで、仕事や勉強がはかどります。ものを考えたり、問題を解決したりするのにも、集中することが必要です。

 

 普通は、何かに集中すると落ち着きが現われ、落ち着きが現われると集中しやすくなるというように、落ち着きと精神の集中は連動しています。子どもがお菓子が欲しいとだだをこねて騒いでいるときにも、「アレ、何かいるよ」と注意を別のことに引き付けることができれば、騒いでいた気持ちが静まり、言われたことに注意を集中させることになります。ですから、子育てにおいては、気持ちを落ち着かせる手段として、注意を他に向けさせて「何だろう」という探索心を起こす働きかけはよく行われます。

 

 ただ、注意を集中させようとしても、落ち着きがおさまらなくて、注意を集中しきれないという問題が起きてきます。だだをこねている子どもの場合でも、激しく泣きわめいているときには、注意を別に向けようとしてもうまくはいきません。落ち着かないために、注意を集中しようという気が起きないこともあり得ます。たとえ意志の力で注意を集中させようとしても、落ち着きが深まらなければ、注意は集中し切れず、イライラが高まってしまう場合もあります。意志の力ではどうにもならないことになります。ある程度、身体的な緊張を取り、リラックスできるようになることが大切です。その上で、静止的な緊張を高めることが大切です。

 

 注意が集中し過ぎてこまる場合もあります。狭い範囲のことばかり集中してしまうために、状況全体の把握ができなくなるといった問題や、固く集中してしまって、融通が利かなくなるとか、変更ができなくなるといった問題が起きてきます。

待機するときの落ち着き

 待機するときの落ち着きとは、何かが起きることを予期して、待ち受けるときにおとなしくなることを言います。例えば、赤ちゃんがイナイイナイ・バーであやされるときに、イナイイナイの後にバーが来ると予期して、バーが来るのをジッと待つということがあります。話し相手が何か話そうとしているなと察知して、言うまで待っている場合も待機の落ち着きということです。このような落ち着きが現れることで、まわりの世界に合わせることができるようになります。

 

 ただ、自分の好きなことに集中するのと違って、まだ起こっていないことに対して注意を集中させることは、ストレスが多い落ち着きと言えます。少なくとも、予期することに関しては、ただ待つだけですから、自分を落ち着かせるためにエネルギーが必要であると言えます。まだないことに対する期待が高ければ、それだけ自分を抑えなければなりません。抑えなければ、待っていられない、我慢できない、ということになります。

 

 後で述べる「我慢の落ち着き」に共通した面のある落ち着きです。我慢の落ち着きに含まれると言ってもいいかもしれません。「我慢して待ちなさい」と言われるときには、待機の落ち着きというよりは、我慢の落ち着きと言っていいでしょう。ただ、待機の場合には、我慢が前面に出ずに、探究心、予想とおりのことが起こるかという期待が前面に出ます。

 

 待機の落ち着きが十分に現れてくることで、我慢の落ち着きも現れやすくなるのではないかと思います。

ゆったりとした落ち着き

 自分の欲求や要求が満たされて、「ああ、よかった」と満足感を感じてゆったりできるのであれば、落ち着きが現れてきます。特に落ち着くための努力をしなくても、実現できる落ち着きです。他の落ち着きは、疲れによる落ち着きや刺激がなくて不活発な落ち着きを除いて、努力が必要です。しかし、ゆったりとした落ち着きの場合は、心地よい感じでリラックスしますから、心の健康にもいいですし、努力も必要ありません。

 

 ただ問題は、満足感や安堵感を十分に感じられるか、ということです。「ああ、よかった」と十分に思うことでゆったりさが現れます。落ち着きのない子は、この「ああ、よかった」という感じ方が弱いために落ち着きがないと言っても過言ではないでしょう。

 

 落ち着きのない子の場合、落ち着かせるやり方としてよく行われるのは、我慢させて落ち着かせるというやり方ではないかと思います。次回も説明しますが、これは努力の必要な落ち着きであり、なかなか十分には落ち着ききれるものではありません。厳しくしつけられる場では落ち着いても、我慢していた反動で別の場でよけい落ち着きがなくなるということが起きてきます。また、これを長年していると、精神が疲れ果て、無気力な感じになってしまいます。

 

 ですから、「ああ、よかった」という感じ方が深まって、落ち着けるようになることが望ましいと言えます。このような満足感を深める働きかけがあります。くすぐったりして活発に楽しく遊んでは、すわらせたり、手ブラブラなどでリラックスさせることを繰り返して、次第にリラックスしながら喜べるようにしていくのです。そうすれば、心の健康にもよい、満足感が十分に感じられるようになります。

我慢の落ち着き

  これを落ち着きと言っていいのか迷うような落ち着きです。何か欲しいものがあるけれど、我慢してジッと待っているといった状況、外から見れば落ち着いているように見えても、心の中は、すぐに欲しいという気持ちと我慢しなければならないという気持ちが葛藤を起こしている状態で、「心中穏やかならず」といったところです。何か身体がむずむずして動きたいけれど、我慢してジッとしている場合もあるでしょう。

 

 外から見れば特に気がつかない場合でも、我慢して落ち着いているときには、身体のどこかに力が入っているものです。歯をくいしばって我慢するということはよく見られることですが、こぶしを握りしめたり、肩に力を入れたり、腹に力を入れたりすることも見られます。力を入れることでふんばり、辛い思いを抑えるということになります。

 

 このような落ち着きは、時には必要です。我慢力がたくさんあった方がいいと言えます。ただ、適切な表現力を持ちながら、我慢力もあるのであればいいのですが、ただ、我慢ばかりしているというのでは心の健康によくありません。我慢すべきところではしっかり我慢できるけれど、我慢しなくてもいいところではどんどん自己主張できるということが大切です。また、ただ自分を抑えて我慢するだけの対処では、芸がないことになります。いろいろな状況にうまく対応できる上に本当に我慢が必要なときに我慢できることが望ましいと言えます。ですから、潜在的に我慢力があった方がいいのですが、常に我慢力を実行しているのはよくないのです。

 

 ともかく、我慢してかつ落ち着いている状態は、ストレスがたまりやすい状態で、あまり長く続けない方がいいでしょう。どこかでワッと騒いで心の憂さを発散することも大切と言えます。

 

 ここで、気をつけていただきたいのは、身体的には落ち着いているように見えても、心の中は穏やかでない、つまり、落ち着いていない状態があるということです。身体的に落ち着いているように見えれば、それほど問題が表面化するわけではありませんから、問題が見えにくくなるという危険性があります。心が落ち着かない状態、例えば、欲求不満が積み重なっている状態で、それでも、とりあえず、勉強机に向かってすわっているのであれば、勉強していると見られ、特に問題視されることはありません。しかし、心が落ち着かないために、勉強に集中できず、長い時間打ち込んでいる割には、勉強したことが理解できていなかったり、頭に入っていないとなると、後々、問題が起きてきます。その結果、頭が� ��いんだ、などと考えてしまったり、勉強は向いていない、と決め付けたりします。

頑張るときの落ち着き

 頑張るときの落ち着きとは、目標を目指して頑張っているときに、落ち着きが必要であれば落ち着いている状態だと言えます。集中する落ち着きと似た面があります。しかし、目標が離れている点で違います。目標を楽しんではいないのですが、目標を達成したときの喜びを想像しながら頑張るという面があります。

 

 努力しながら落ち着いているわけですから、他のことに気が散ることを抑えるだけでなく、目標に向かう努力もしているということです。身体的には活動しながら、精神的には落ち着いています。それだけ心理的に負担になっていることになります。ただ目標が楽しいことであれば、落ち着いて頑張ることは嫌なことではありません。

 

 努力が負担になれば、ストレスがたまり、落ち着きがなくなりやすくなります。過度な努力が必要な場合には、休憩しながら努力を続けることが大切となります。すると、ゆったりした状態と努力の状態の変化がスムーズに現れることが必要です。それだけ、自己調整能力が必要ということになります。それだけ、単なる我慢よりも難しいことになります。

 

 ここで考えなければならないのは、何も努力をしていない落ち着きと何か努力している落ち着きを比べるとどちらが容易かということです。普通は、何もしていないで落ち着いている方が楽かと思いますが、落ち着きのない子の場合、身体が動いてしまうために、何もしない方が難しいときもあります。適度に目標を与え、活動させた方が落ち着きやすい場合もあるということです。

活発だけど冷静に対応できるときの落ち着き

 ジッとしているばかりが落ち着きではありません。我慢する落ち着きのところで身体は落ち着いたように見えるけれど、心は穏やかでないという話をしましたが、「活発だけど冷静に対応できるときの落ち着き」の場合は、身体は活発に落ち着いているけれど、心は落ち着いている、冷静な状態を言います。ときには、まれなことですが、テキパキといろいろなことを考え、活発に頭を働かせながらも、精神を全体的に見るならば落ち着いているということがあります。

 

 例えば、マラソン選手は、マラソンをするときに、身体を活発に動かしています。活発に動かしているわけですが、適切な動かし方をしているわけですから、落ち着きがないとは言えません。ですから、大雑把に、活動状態を区別すると、

 

「活発ではあるけれど、適切に活動している状態」

「落ち着き状態」活性化されているけれど静かな状態。

「落ち着きがない状態」混乱した状態。

 

となるかと思います。さて、マラソンの場合は、身体は活発に動いているけれど、精神の方は、落ち着いていると考えられます。ただひたすら、ペース配分を考えながら、走り続けることに集中しているわけですから、精神的に落ち着いていると、言えます。もちろん、個人的に考えると、前日の夫婦ゲンカを思い出して、腹を立てながらマラソンをしている人もいるでしょうから、必ずしも、精神的に落ち着いて、マラソンをしているばかりとは言えないでしょうが、多くの人は、マラソンに集中して、気持ちは落ち着いていると言っていいでしょう。

 

 このように、身体は活発に動かしながらも、心は落ち着いていることは、簡単にできる当たり前のことと思われるかもしれませんが、これは、精神的に成熟した大人の場合に言えることであって、子どもたちにとっては難しいことと言えます。幼児は特にそうなのですが、子どもの場合は、身体を動かしていると、気持ちも活発化してしまいます。よく小学校やときには中学校でも、他の教室に移動するために、子どもたちが廊下を歩くときに騒がしくなって、先生に「静かに、歩きなさい」と注意されることはよく見られる光景です。歩くと心も解放された感じになって、話しやすくなるわけです。

精神の活発さと落ち着き

  身体的に活発に動いても、心が落ち着いていることは、子どもにとっては難しいことですが、大人ではそれほど難しいことではありません。このことについては、前回説明しました。

 

 さらに困難なのは、活発な精神的活動をしながら、かつ、精神を落ち着いた状態に保つことです。

例えば、緊急な事態で、急いでいろいろな情報を検索して、必要な情報を見つけ出すという作業を冷静に行ったり、車の運転で狭くて曲がりくねった道を高スピードで走る場合、道をそれないように多様に変化する状況に冷静に注意を向けて運転したりする状況があります。本来であれば、カッカッとしてしまうような状況でも、冷静に対処するわけですから、これは困難な作業と言えます。

 

 また、逆に静かな環境の中で瞑想するというように、ほとんど刺激がない中で、精神の安定を図るということも困難な作業と言えます。この場合には、環境からの刺激は少ないわけですが、自分の心の中から湧き上がるさまざまな想念やイメージがあって、気持ちが落ち着かなくなる危険性があります。いわゆる雑念と言われるようなさまざまな想念やイメージが浮かび上がるのを抑えて、心を無にする、無念無想の状態にすることはなかなか難しいことであり、よほど訓練しなければ、そういった境地に至ることはできません。

 

 ただ無念無想の境地が、精神的に活発な状態であるかどうかは、明確ではありません。そこで、とりあえず、活発に情報処理をしながら冷静でいる状態を考えます。情報処理能力が高ければ、かなり難しい情報処理をしながらも余裕をもって冷静でいられるでしょう。また、リラックスする練習をして、リラックス能力が高まれば、難しい課題をしながらも、リラックスを維持できるようになるのではないかと思います。冷静に難しい情報処理を活発に行うことについては、情報処理能力とリラックス能力の2つの要素を考える必要があると言えます。


スポーツにおける化学の役割は何ですか?

適度な活動水準

私たちには、それぞれ適度な活動水準があります。ある人は、静かにものを考えているときが一番快適と感じられます。そういう人にとっては、活発に動くことはストレスを感じる状態です。別の人は、活発に身体を動かしているときが快適と感じられます。そういう人にとっては、静かな環境は退屈でストレスを感じる状態になります。ある人にとっては、ちょこちょこ動き回る子どもと一緒にいるとイライラしてしまいます。子どもたちはうるさく予測不可能なことをするからです。別の人にとっては、子どもと活発に遊ぶのがとても楽しく感じられます。

 

 人にはそれぞれ違う適度な活動水準があります。ある環境はある人によくても、別の人には適度な環境ではないのです。

 

 落ち着きのない人や子にとっては、静かな環境は苦痛となります。刺激が少ないと落ち着きがなくなります。しかし、活発な活動ができたり、刺激が多い場面ではかえって、気持ちよく活動できます。活発な方が、その場での課題がうまく出来るわけです。

 

 落ち着きのある人は、静かな環境で十二分に能力を発揮することができます。しかし、騒がしい環境ではイライラして、精神を集中できなくなります。

 

 「落ち着きがない」と言えば、聞こえは悪いですが、要するに静かな環境や静的な活動をしなければならない状況で、落ち着きを失うということです。にぎやかな環境や活発な活動が必要な状況では、かえって快適に活動できるのです。

第3節 落ち着きと文化

落ち着きが必要な学校

  学校では、落ち着きが要求されますから、「落ち着きのない子」には不利な環境と言えます。まず、50分なり、45分の間、静かに人の話を聞き続けなければなりません。その話もとても笑わせる面白い話で、しかも大いに笑っていいというのであればまだいいのですが、大概は真面目な話で、とても血沸き肉踊る話ではありません。廊下を歩くときにも騒いではいけません。体育で身体を動かすときや部活をするときが唯一思い切り身体を動かせる時です。こういう状況は、刺激や活発な活動を必要とする落ち着きのない子にとっては不利と言っていいでしょう。

 

 もし、学校が、人より有利な条件を得るための壮絶なかけひきの場であったり、動き回って危険な状況を切り抜ける訓練・冒険の場であったり、にぎやかな刺激がいっぱい与えられてその中で自由に独創性を発揮できるような場であるならば、落ち着きのない子にとっては心地よい場となるでしょう。そのような学校では、落ち着きのない子が優秀な成績を得ることができるのではないかと思われます。一方、落ち着いた状況やじっくり物事を考えることやモノをきちんと整理することが好きな子にとっては、混乱と苦痛の場となるでしょう。自分たちの実力を発揮することができずに、成績も下位に甘んじなければならないでしょう。

 

 現代という社会が、全体としてみると、必ずしも学校ほどの落ち着きを必要としているとは思われないのですが、しかし、学校では、落ち着きがかなり重要な資質となっています。子どもたちは、学校においてかなり落ち着きを得るための訓練をされて、落ち着いた社会人になるように育てられています。

 

 その落ち着きも、人と落ち着いてなごやかに交われるようにするための落ち着きならばまだいいのですが、極端な見方をしますと、「孤独に勉強できるための落ち着き」であったり、「大人の指示や話を一方的に受身的に全面的に受け入れるための落ち着き」であったりしますから、学校よりもさらにダイナミックな人間関係が展開される社会に適応できない人が多く現れてしまいます。おとなしい子は、問題のない子と見られる一方、落ち着きのない子は、活発な子として評価される場合もありますが、ジッとしていられない子、勉強に打ち込めない子として低く評価されることも多くなります。

歴史的に見ると

  文明が起こる前、狩猟・採取の時代が長く続いたのですが、そういう時代には、落ち着きのなさが重要な資質であり、落ち着きのない人たちが有能な人として活躍していたのではないかと考える人もいます。狩猟や漁撈では、動きの予測がつきにくい動物を相手に仕事をしますから、さまざまな情報を広く浅く収集する能力、とっさの判断や活発な動き、強い動物にも立ち向かえる冒険心が必要です。元気に活発に動きまわるような落ち着きのない人が、大いに活躍したと思われます。

 

 つまり、人類の歴史において、「落ち着きのなさ」が必要な時代が長く続き、遺伝子の中に「落ち着きのなさ」が必要な性質として組み込まれたと考えられる、というわけです。ただ、狩猟においてさえ、落ち着きのなさよりは、落ち着きの方が必要な場合が多かったのではないかと考えられます。獲物が来るのをねばり強く待ち続けたり、動物の足跡を追跡して、どちらに向かっているか冷静に推測したり、落ち着いて考えなければならないことも多かったのではないかと思われます。

 

 どの時代においても、落ち着きと落ち着きのなさは、どちらも大切な資質であったと思われるのです。落ち着きのなさだけが大切な時代というのはないでしょうし、落ち着きだけが必要な時代もなかったでしょう。ただ、戦国時代のような勇敢さや危険を顧みない猪突さを持った人間が表立って活躍するような時と場はあったでしょう。江戸時代のように、こつこつと慣習を守ることが求められた場では、落ち着きのある人が活躍したと思われます。

 

 今の学校では、落ち着きのある学生が優位に立つようなものです。ただしかし、落ち着きのある人がいつまでも優位でいられるかどうかは確定することができません。度胸や独創性が必要とされる社会では、まじめにがんばるだけでは大成しないからです。

 

 それでも、落ち着きのなさが不利だと考えられていることは確かだと思われます。そういう時代だから、落ち着きのない子や人は不利だと考えられ、落ち着くように働きかけられることになるのです。

落ち着きの利点

  ここで改めて、「落ち着き」と「落ち着きのなさ」の利点について考えてみましょう。まずは「落ち着き」の利点についてです。疲れていたり、ぼんやりしていたり、無気力になって落ち着いて見える状態は、エネルギーを補給するという役割があるかと思います。まわりの刺激に反応することで、残りわずかなエネルギーを消費するよりも、反応しないことで、エネルギーを蓄積していった方がいいわけです。

 

 物事に集中するときの落ち着きも、落ち着くことで余分なエネルギーを使わないで、必要なことのみにエネルギーを集中でき、効率的に必要な処理ができるという利点があります。落ち着いて勉強できる子の方が、問題を理解し、記憶することがうまくできます。落ち着いている方が打ち込めるということです。専念できるということですね。

 

 また、落ち着くことで、しっかり打ち込み続けられるようになります。仕事や勉強を持続できるようになるということです。落ち着くことで、人との交渉がうまくいくようになります。こちらが。落ち着くことで相手も落ち着き、交渉しやすくなります。感情的になってしまっては、社会的関係はうまくいかないわけです。

 

 くつろいだ感じの落ち着きの場合、自分が興味を持たないことや、少し気に入らないことも、受け入れられるようになります。自分がしでかした失敗に関しても、受容して反省することができます。また、ゆったりした落ち着きは、健康の維持に重要な役割を果たします。活動状態を適度なレベルに保つのに役立つからです。

落ち着きのなさの利点

  落ち着きのなさに利点があるかと思われるかもしれませんが、いろいろいい点があり、社会のあり方や人の考え方が変わっていけば、「落ち着きのなさ」を活用していくことも可能です。

 

 落ち着きがないと言うことは、活動が活発だということです。勢いや迫力がありますから、落ち着いた状況や静的な社会でははみ出してしまってうまく適合できませんが、勢いや迫力が必要な交渉場面では、役に立つ場合があります。どんどんと言葉を連発して、相手に反論の時間を与えないこともあり得ます。勢いに飲まれて相手が、こちらの意見を取り入れることもあるでしょう。

 

 落ち着きがないということは、次々とやっていることを変えたり、視点を変えたりすることです。短時間に様々な情報を手に入れることになるので、奇抜なアイディアが生まれたり、思ってもみなかった情報に出会う可能性が高まります。数撃てば当たる、と言われるように、多くは価値のないアイディアだったり、情報だったりしますが、数多く生産したり出会ったりすることで、価値あるアイディアが生まれるかもしれません。

 

 私たちは、今までのやり方でうまく行かず、行き詰ったときに、イライラして落ち着きがなくなります。イライラするからと言って、ちょいと休憩と言って、他のことをやったり、本当に休んだりします。こうすることで、今までとは違った考えが生まれる可能性が高まるのです。イライラして、関係ない本を読んだりして、行き詰まりを打開するアイディアが思い浮かんだりするものです。イライラするということは、今までのやり方ではよくないぞ、新たなやり方を発見しなければならないぞ、と感じているということだと思われます。ですから、イライラしたら、どんどん別なことをして嫌な気持ちを発散しつつ、新たなアイディアを求めればいいわけです。

 

 落ち着きがないということは、何かやる場合にもすぐに飽きるということです。他のことをやりたくなるということです。そんなときには、飽きないようにするにはどうしたらいいかを考えればいいかと思います。そうすることで。もっと面白いものを見つけられるかも知れないのです。

 

 落ち着きのなさは、新たな可能性を見つけるために必要な資質と言えます。面白くなくても、行き詰っても、今までのやり方に固執しようというのでは、それこそ身動きの取れない状態に陥ってしまうことになります。

3つの精神的活性

  私は、情緒の研究をしていて、頭には3つの活性化の仕方があると考えるようになりました。ひとつは、エネルギーの集中と固定を高める活性化です。もうひとつは、エネルギーを動きとして消費する活性化で、変化や別の可能性を求め、即応・勢いよい現状打破に役立ちます。もうひとつは、活動をやわらげる活性化です。ゆったりとしみじみと物事を感じとるのに役立ちます。

 

 この3つの活性化が、状況に合わせてバランスよく現れれば、うまく生きていけると思われます。落ち着いて仕事や勉強に集中することが必要なときには、エネルギーの集中や固定がうまくいくことが大切です。他の人との競争や駆け引きといった活発にテキパキと「落ち着きがないほどに」活躍する必要がある状況では、活発になれることが大切です。くつろいだ雰囲気で、他の人との親交を深める場面や自分の失敗や成功などをしみじみと感じる状況では、気持ちがやわらぐことが大切です。このように、それぞれの状況に応じて、それらにふさわしい気分になれることが大切と思われます。

 

 それが、落ち着きの必要な場面でも、活発に活動してしまったら、困ってしまいます。活発な勢いのある活動が必要な場面で、どうしたらいいのだろうと固まってしまっては、うまく対処できません。みんながなごやんだ雰囲気で話をしているときに、真面目な顔をしていたり、一人はしゃいでいては、人とのつきあいがうまく行きません。

 

 成長の過程で、これらの3つの活性化がうまく生かされていけば、日本では、強調点が違います。幼児期は、おとなしさや活発さが強調されます。おとなしい子は、いい子として評価され、活発な子は、はきはきとした元気な子として評価されます。児童期、思春期、青年期という長い期間は、真面目さや頑張りが強調されます。勉強やルールを守ることで、何かに集中する真面目さが求められるだけでなく、活発さや元気さの発揮も、何かに力を集中して頑張ることが求められるようになるのです。

 

 このような傾向があるために、バランスのよい発達が阻害される場合も現れてきます。

状況に合った活性化を

  それぞれの人に合った活躍の場があることは、すばらしいことです。元気な人や子は、元気さが生かされる場があると生き生きすることができます。コツコツと物事を整理することが好きな人や子には、そういう仕事が与えられることがやりがいのもとになるでしょう。人と話をするのが好きな人は、人と話をする機会が与えられれば言うことなしということになります。適性検査をしたり、自分が得意とすることや好きなことを見つけて、自分に合った職業を選べればいいことになります。

 

 落ち着きのある人と落ち着きのない人という大雑把な分類でも、同じようなことが言えると思います。落ち着きのある人は、何か継続してコツコツとやり続けなければならない仕事が向いているでしょう。きちんと物事を整理したり、じっくり深く物事を考えるような仕事も向いているでしょう。同じことを繰り返しやるような仕事もいいでしょう。

 

 落ち着きのない人にとっては、身体を思い切り動かすような活動が向いているでしょう。体育やスポーツでも、相手がいるゲームの要素があるスポーツがいいかと思われます。相手の変化・出方にテキパキと対応することに面白さを感じるからです。人の動きは相手の裏をかこうとして千変万化しますから、飽きることがありません。また、まともな解答ではなく、突飛な答えや意表をつくアイディアを評価される場も向いていると思われます。

 

 個性の違う人がそれぞれ個性にあった活躍の場を得られるようにすることは、大切なことです。そのためには、様々な活動の場が存在することが大切です。そして、多様な活動形態を認める価値観の多元化も重要です。つまり、「落ち着きがあるのもいい、落ち着きがないのもいい」と考えられる心を持つことが大切なわけです。しかし、それが難しいわけです。みんなが同じでなければならない、同じでなければ美しくないと固く考える人もいるからです。

 

 そして現実には、みんながある程度そろわなければいけないと考える人が多いようですので、個々人の持っている個性を修正していくことが大切となります。個性は環境によっても形成されますから、環境を変えることで、現代という社会が求める人になるということも、ある程度大切なことと言えます。

第4節 落ち着きのなさと発達

落ち着かない子の発達。乳児期

  社会が個人に合わせる面も大切だし、個人が社会に合わせる面も大切だという点について、述べてきました。これから、個人が社会に合わせる面について考えていきたいと思います。個性は、生まれつきのもので変えることはできないというのであれば、かなり社会が個人に合わせなければならないわけですが、個性は環境によっても形成されるわけですから、勝手に育って個性が形成されればいい、というものではないのです。自分の好きなように活動しているからのびのびとしていていい、個性を十二分に発揮しているかと言うとそうでもないのです。世界には、それこそ多様な環境があり、多様な活動の仕方があり、その結果、生得的に似た性質を持っていても、異なった個性に育っていくことはあります。� ��すから、子どもが自分の好きなことをしているから、それでのびのびと個性を伸ばしていけるというものでもなく、やはりいろいろな環境を経験し、いろいろな活動に挑戦していくことが大切と考えられます。

 

 さて、「落ち着きのない子」の発達を見ていくことで、どのように環境を整えていったらいいのか、どのように働きかけをしていったらいいのかについて考えていきたいと思います。

 

 落ち着きのない子の乳児期の様子を振り返って見ると、だいたい2つのタイプに分けることができます。1つは、生まれたときから固い感じであったり、よく動いていたタイプです。1つは、おとなしいタイプです。

 

 固い感じの赤ちゃんとは、抱っこしてもしっくりと抱く人の身体により添わなかったり、固いと感じさせたりします。また、もぞもぞと身体を動かしていることが多い場合もあります。不機嫌になりやすかったり、いったん泣くと強い泣きを示す場合もあります。

 

 おとなしい赤ちゃんとは、眠っていることが多かったとか、目覚めていてもおとなしく一人遊びしていることが多い赤ちゃんで、大人があまり世話をしなくても大丈夫で、お利口さんと見られます。目覚めているのか眠っているのか、はっきりしない場合もあります。泣くこともあまりないので、親をてこずらせることがありません。

落ち着きのなさのパラドックス

  生まれたときから、固い感じであったり、動きが止まらない赤ちゃんであれば、幼児期になってからも落ち着きがないのはわかりやすいのですが、おとなしい赤ちゃんだったのが、歩き始めると多動になってしまうのは理解しがたい話と言えます。子どもによっては、歩き出すとともに走り出して、目が離せない状態になってしまったということもあります。なぜ、おとなしい赤ちゃんが、突然、落ち着きのない幼児へと変身してしまうのでしょうか。

 

 私は、子どもの成長を見る場合、緊張や興奮の高まりと落ち着きというサイクルを考える必要があると思います。普通の赤ちゃんの場合、生まれた直後から緊張を高めて泣きます。それが抱っこされて慰められたり、授乳されておとなしくなり眠ったりするわけです。赤ちゃんの時期には、泣いては落ち着くというサイクルを毎日、何回も繰り返しながら成長していきます。また、泣く以外にも、あやされて喜びが高まったり、親の働きかけを期待して喜んだりしては、落ち着くというサイクルもあります。また、何かを目指して頑張っては落ち着くというサイクルも繰り返します。

 

 このように、普通の場合、様々な形の緊張・興奮と弛緩のサイクルを繰り返して、緊張・興奮を含んだ気分状態のコントロール能力が育っていくと考えられます。サイクルができるということは、緊張・興奮が高まっても落ち着けるということです。沈静能力が身につくわけです。逆に、おとなしい状態から、緊張・興奮できるということもあります。活性化の能力が伸びるわけです。つまり、緊張・興奮と弛緩のサイクルを繰り返すことで、沈静化と活性化がうまくいくようになるということです。

 

 しかし、おとなしい子や固い子の場合、このサイクルがうまく働かないわけです。

うまく行かないサイクル

  生まれたときから、固い感じであったり、動きが激しい赤ちゃんの場合、強く泣いて慰められて、落ち着いたように見えても、固さが残ったりもぞもぞした動きがおさまらなかったりします。すると、「緊張・興奮と弛緩のサイクル」で考えると、十分な弛緩が得られませんから、緊張・興奮から弛緩に至る部分うまく行っていないということになります。そのために、幼児期になっても、弛緩が十分に得られず、落ち着きのない子ということになるものと思われます。

 

 一方、生まれたときから、おとなしい赤ちゃんの場合はどうでしょう。おとなしい赤ちゃんの場合、緊張・興奮の高まりがありません。ずっと弛緩に近い状態が続いてしまいます。ということは、緊張・興奮の高まりから弛緩へという気分のコントロールを学ぶことができません。弛緩から緊張・興奮の高まりへというコントロールも練習せぬまま、大きくなります。

 

 乳児期に寝転んでいることの多い生活を過ごすことになりますが、1歳になって立てるようになると、身体を立てている生活が増えることになります。つまり、乳児期から幼児期に移行する段階で、身体の使い方が、横たわる生活・座位の生活から、立位・歩行の生活へと大きな変化をとげることになります。このような身体の使い方の大きな変化に伴って、身体的に緊張が高まることがあります。しかし、緊張・興奮と弛緩のサイクルを経験していなかった子は、緊張が高まっても、弛緩するという過程を学んでいませんから、いったん緊張が高まると、なかなか弛緩できないという問題が起きてきます。

 

 つまり、赤ちゃん時代におとなしかった子が、立つようになって緊張が高まるようになり、調子よく歩き出すと、弛緩がうまく行きませんから、調子よく歩き続けてしまうことになってしまいます。赤ちゃんの時であれば、抱っこも容易にでき、泣いたとしても抱き続けてゆったりさせることは容易だったのですが、幼児ともなると、抱っこで落ち着かせるにしても力が強いですからなかなかリラックスさせることは容易ではありません。走りまわってもリラックスさせることは難しいですから、動きを止めて落ち着かせようとしても中途半端で終わってしまいがちとなります。落ち着けないまま、終わりがちとなります。子どもから見れば、大人は自分の動きを制限する嫌な存在となり、大人に抵抗するようになる� ��ますます落ち着くどころではなくなってしまいます。

幼児期の落ち着きのなさ

  もともと幼児期は、落ち着きのない時期と言われています。まず、幼児は好きなように動き回るからです。自分がしたいことにこだわります。あれしたい、これしたいと自己主張します。1つのことに集中し続けるのは苦手です。

 

 規則がわかりかけてきた3歳でも、自分が面白いことをやろうとし、面白くないことは受け入れません。かくれんぼをやっていても、かくれているのは面白くありませんから、地面に絵を書いたりと他のことを始めてしまいます。規則を守らなければいけないと思うようになってきた4歳児でさえ、基本は楽しさの追求です。規則を守っても楽しくなければ、遊びをやめてしまいます。ようやく5歳になって、自分が面白くないことも引き受け、みんなのためにがんばろうとするようになってきます。

 

 ですから、幼児期全体が落ち着きのない時期とも言えます。その中でも落ち着きのない子は、乱暴であったり、自己中心的であったり、人のモノを取ったり、チョコチョコと走り回ったり、まわりの子との間でもめごとが絶えないことになります。よくケンカもします。大きい声も張り上げたり、泣いたりもとます。ともかくにぎやかです。

 

 見た目にはかなり落ち着きがないわけですが、この時期は反面働きかけによく反応を示す時期でもあります。手ブラブラとか、寝かせてする足まげとかの働きかけに対して、いったん受け入れたら、リラックスしやすいのです。そして、働きかけによってリラックスしてくれば、落ち着きやすくもあります。くすぐりで興奮を高めても後でホッと落ち着きやすいという面もあります。

 

 ですから、落ち着きを深めるのであれば、幼児期にしっかりと働きかけることが大切です。特に身体的な落ち着きは、幼児期に解決しておきたいものです。


不当な影響力の署名の要素ます

児童期の落ち着きのなさ

  児童期は、授業中ズッとすわっていなければならない学校があります。身体的に落ち着かなかったり、情緒的にはしゃいでしまう子は、すぐにわかってしまい、目だってしまいます。幼児期にけっこうにぎやかだった子も、落ち着こうと思えば落ち着ける場合は、大概、授業では落ち着いて、先生の話を聞きますから、落ち着けない子が浮き出てしまうことになります。

 

 まず、着席していられるかどうかです。すぐに立ってしまったり、うろうろしがちな子は、学級崩壊のクラスならばいざ知らず、目だってしまいます。授業中、余分なことを話さないという点も重要です。先生の言葉に過剰に反応して、思いつきをペラペラ喋る子がいます。よく喋るとしても、ある程度先生の話に噛み合っていればまだいいのですが、後ろを向いてしまって友達に話かけたり、窓の外の景色を見て好きなことを言ったりしていては、かなりこまるということになります。

 

 すわってはいるけれど、貧乏ゆすりのように絶えず身体を動かしている子もいます。ノートに下敷きを入れたり出したり、鉛筆が転がって拾ったり、筆箱をがさがさと探ったり、ノートや机に落書きしたり、本を立てようとして苦労していたり、すわっていてズルズルと尻が前にづれていってふんぞりかえっているようにすわっていたり、なかなか多彩な落ち着きのなさを示してくれます。

 

 みんなが持っているモノを見せてもらいたがったり、持ちたがったり、人が傷つくことを平気で言って笑ったりして、友達との争いが絶えないような子もいます。すぐに、友達の首を絞めたり、抱きついたり、押したり、ボクシングのようなことをやり始めたりと、友達が嫌がっているのに、自分は遊びのつもりで、友達にちょっかいをかける子もいます。

勉強への影響

 学童期の落ち着きのなさは、勉強に影響します。ただ、顕著な落ち着きのなさが小学校の低学年ぐらいで、納まってくるといい影響となる場合もあります。落ち着きのなさは、ときとして活発さということであり、その活発さが日ごろの活動に生かされておれば、活発な知的活動に結びついて、知的能力が高まる場合があります。落ち着きなく、いろいろ本を読んだり、いろいろなモノを集めたり、友達と盛んに話をしたり、その他、活発に趣味に打ち込むことができると、落ち着きのなさは、瞬間的に情報を読み取る力へと成長していきます。

 

つまり、パッと見ただけで状況を把握したり、情報を取り入れたりする力を伸ばすことがあります。いわゆる速読術のようなものです。落ち着きなく、いろいろなものを見ていくので、次第に短時間で情報を吸収する能力が伸びるわけです。そうすると、バッバッと教科書を読むと理解してしまうとか、人の話をパッと聞いただけで理解できるなどの力が備わります。その結果、雑学が身につき、博学となります。そして、面白いアイディアや独創的な考えを生み出すことが得意となります。勉強もそれほど苦労しなくてもわかるようになります。よく喋る頭の回転の速い子と見なされます。

 

 以上は、落ち着きのなさが活発さに結びつき、速読的な能力が伸びて、独創的なアイディアを生み出す勤勉な人へと成長していくことになります。しかし、落ち着きのなさは、悪い影響をもたらしてしまう場合もあります。

 

 落ち着きがないと、おとなしく先生の話を聞くことができないことになります。先生の真面目な話を単調で、面白くない、つまらないと感じて、じっくり聞くことはできません。話をじっくり聞かなければ、勉強はわからなくなります。いろいろ教えてもらっても、頭に入らないことになります。

 

 話をしっかり聞かず、勉強がよくわからないと、ますます勉強が面白くなくなります。そのために、まわりの人からバカにされたりすると、劣等感を持つようになり、さらに勉強をする気がなくなっていきます。

 

 落ち着きがないと、話をじっくり聞くことができないだけでなく、じっくりと読み取り、じっくりと考えることができません。そのために勉強に関する理解が深まらないことになります。何か考えようとしても、面倒臭くなってやめてしまいます。「ええい、もういいや」などとなって理解するための努力を放棄したり、しっかりわかっていないのに早合点してしまいます。ですから、知識や理解が不正確なままになってしまいますから、ますます勉強はわからなくなります。

 

 忘れ物が多かったり、変な間違いが多かったり、うっかりミスが多かったりで、勉強には向いていないと自覚せざるを得なくなります。落ち着きのない子は、小学校低学年では、面白い子と見られます。本人も、自分のうっかりミスを売りにするようなところが見られ、道化役のような振る舞いをしたりします。わざと間違えて、みんなの笑い者になったり、おかしなことを言って場の雰囲気をなごませます。しかし、高学年になるにつれて、愛嬌者が本格的に相手にされなくなってしまいます。そのために教室の隅でおとなしくしているといった状態になってしまったりします。

 

 けっこう自由に好きなことをやらせてもらえれば、落ち着きのなさが、頭の活発さ、利発さにつながっていくのに、劣等感が植え付けられてしまうと、何事もきちんとできない人間という評判を取ってしまうことになるのです。

落ち着きをなくす集中力

  集中力が現れることで落ち着きがなくなるなんて、おかしな話だと思われる方がおられるかと思います。何かに集中するということは、落ち着いて打ち込むということだからです。しかし、あることに打ち込むことが、他のことに集中することを妨げているとしたら、困ることです。

 

 ここで述べたいのは、強烈な感覚刺激への集中が、人の話や読書といったより複雑な知的能力を要する作業への集中を妨げるという話です。例えば、テレビゲームへの集中があります。キャラクターを細かく動かして、ケンカをしたり、危険な状況を切り抜ける作業に集中します。状況の変化や敵の動きに反射的に対応して、勝ち抜くわけです。テレビ画面という狭い範囲で起こる感覚刺激の変化にパッパッと応じて遊びます。確かに、危険な状況を切り抜けたり、敵に負けないようにがんばる面白さがあるわけですが、自分はそれほど介入しているわけではありません。あくまで画面上の出来事ですから、目や頭の動きも乏しいし、姿勢の変化もありません。特定の指が小さいコントローラーの上を行き来するだけ� ��す。ごく限られた反応のオン・オフを続けるだけです。単純な繰り返しに快感を感じてしまうわけです。

 

 テレビや映画も、テンポが速くなっています。その速い変化にアレヨアレヨという間に吸い込まれてしまいます。爆発音や車や景色がめまぐるしく流れるという感じて変化していきます。クイズ番組やバラエティー番組も、軽妙に話をするのを聞いているだけです。多少は考えたりしますが、できないからといってそれほど自分に影響があるわけではありません。解説も映像を使ったわかりやすいものです。わかりやすいということは、それだけ頭を使わなくてもわかるということです。

 

 このように感覚刺激の変化に単純に即応したり、めまぐるしく変化する画面や音をただ見たり聞いたりするだけの活動に集中していると、普段の人の会話や勉強がつまらなく感じてしまいます。学校での先生の話は、それほど、血沸き肉躍る話ではありません。内容はあるのに、音声としての感覚刺激から言えば、単調そのものです。何か問題を解くにしても、すぐにパッパッと答えが現れるわけではありません。感覚刺激としては、面白みがないと言っていいでしょう。

 

 内容は乏しいけれど感覚刺激の変化が面白いことに集中していると、内容はあるのに感覚刺激としては魅力のないことに面白さを感じることができず、飽きて、集中できないことが起こるのです。

無気力と落ち着きのなさ

  小さいとき落ち着きがなかったという人で、大きくなってからも元気に活発に活躍している人がいる反面、無気力になってしまう人もいます。無気力になってしまう人は、小さいときに落ち着きがなかったために、落ち着くように厳しくしつけられ、次第に無気力になっていった人たちです。特に幼児期から小学生低学年にかけて、はしゃいだり、落ち着きがないと厳しく叱責されて、泣く泣くおとなしくしなければならなかった人たちです。たいがいは、小さいときの落ち着きのなさは、大目に見られますが、成長するにつれて、次第に落ち着くようにしつけられるようになってきます。しかし、中には、小さいときから厳しくしつけられる場合もあるのです。

 

 中学生になって無気力な状態になっていた人は、「何をやっても楽しくない」と言い、冴えない表情で、おとなしい感じになっていました。親が心配して何か楽しいことをするように言っても、やる気が出ないと言いますし、旅行に家族で一緒に行っても楽しくなかったと言います。単についていっただけだと言います。勉強や部活などに意欲を示すことはなく、ぼんやりしていることが多いようです。

 

 落ち着きのない子を落ち着かせるにしても、落ち着きのなさと正面衝突して、強制的におとなしくさせようとすると、生きるエネルギーさえ失われる形でおとなしくなってしまう可能性があります。理想としては、元気な状態で落ち着けるようになることが大切かと思います。そのためには、落ち着きのなさをスポーツなどで発散させて、落ち着かせていくやり方と、落ち着きのなさはある程度認め、好きなことをやってもいいよと言いながら、要所要所で落ち着かせるというやり方があります。また、リラックスの仕方を教え、リラックスの状態に慣れていく方法、リラックスした喜びを引き出して、ゆったりとくつろげるようにしていくという方法などがあります。

 

 正面から落ち着きのなさを押さえつけようとすると、無気力になる場合と、人に対して逃避的になり、人から離れて好きなことをする場合と、人に対して反抗的になる場合があります。特に叱られて、嘆くように泣いたり、絶望的な表情でおとなしくなってしまう場合には、無気力になっていく可能性が高いので気をつけなければなりません。

思春期の落ち着きのなさ

  小学校の高学年から中学生、高校生にかけての問題です。見た目にあきらかに落ち着きがない子ばかりでなく、この時期には、見た目には落ち着きがないとはっきりしない子の落ち着きのなさが問題になってきます。つまり、身体的情緒的な落ち着きのなさではなく、精神的な落ち着きのなさが注目されるようになるのです。

 

 この時期というのは、そろそろ勉強に落ち着いて真面目に打ち込めるようになる時期なわけですが、真面目に集中できない場合に、勉強ができない、がんばっても成績が上がらない、勉強が苦手だ嫌だという形で、問題が起きてきます。勉強しようとしても、そして見た目にはやっているように見えても、本人が真面目にやらなければと思っていても、しかし、勉強に十分に集中できないということが現れてきます。別にこの時期に急に現れてくるわけではないのですが、低学年のころは、勉強の内容も具体的で、しかも、それほど打ち込まなくてもできるというレベルだったので、見た目に落ち着いていれば、集中し切れないという行動は問題とはならなかったのです。真面目に落ち着き、かつ、集中する力が要求� ��れるようになる思春期に、そのような力がないことが問題となってきます。

 

 しかし、案外と「落ち着き切れない」ということが問題にされることがなく、単に頭が悪いのだと、とか、勉強に向いていないのだというように解釈されてしまいます。そうなると、勉強すること自体を放棄するか、ますます単に真面目にやれと言われるだけになり、根本的な解決にならない場合がけっこうあるのです。

 

 勉強においては、頭の中でイメージを描き、そのイメージを頭の中で変形したり、動かしたりすることで思考したり理解したりするものです。そのようないわゆる「熟考」が重要な役割を果たしています。そのためには、ゆとりをもって落ち着くことが重要なのです。十分落ち着くことで、思考過程に注意を向け続けることができるからです。

イライラが悪化させる

  思春期は、自分がどんな人間であるのかを考えるようになる時期です。しかも、まだ自分独自の見方によって自分を考えるというよりも、かなり他の人の見方を参考にします。大人の見方には反発するとは言え、それでも、影響を受けます。なによりも影響を受けるのは、同世代の人の意見です。直接言われて、気にする場合もありますが、自分で友達は自分のことをこのように見るであろうと判断して、その判断に左右されることが大きいと言えます。結局は、自分の自分に対する判断と言ってもいいのですが、他人の目を意識した自分の意見と言ってもいいでしょう。話が複雑になるわけです。

 

 さて、自分が勉強が苦手で勉強が出来ないと思うと、人もそう思って自分を見るだろうと思ってしまい、そのために、よけい強く劣等感や苦手意識を持ってしまうことになります。そう思っているときに親とか先生から、もっと勉強しなさいとか、勉強の出来が悪いぞ、と言われると、よけいキズついて反発することになります。もちろん「いや、私はできるのだ」と反発してくれればいいのですが、たいがいは「どうせ私は出来の悪い人間だ。ほおっておいてくれ。」などと反発します。

 

 それで、ただでさえ勉強に打ち込めないのに、劣等感や苦手意識や反発心やイライラが高まって、ますます落ち着きがなくなり、勉強に集中できないことになります。すると、自分は勉強に向いていないなどと完全放棄をする危険性があるのが、中学生3年生ごろからです。小さいころは、苦手意識があるにしても、やはり勉強はしなければいけないもの、できないよりはできた方がいいものという意識を持っています。大人の影響を受けていると言えます。しかし、中学生も終わりごろになってくると、自分は勉強はいらない、勉強はできなくてもいい、などと居直るようになってきます。

 

 そうすると、ますますコツコツと地道に何かやるよりも、強烈な刺激を求めたり、活発に身体を動かす発散的な活動の方にのめりこむようになります。落ち着きがなくなっていくようになる場合もあるのです。

活発さが裏目に

  小学校低学年まで活発だった子が、高学年や中学生になると嫌われてしまうことがあります。以前は、友達の間でリーダーシップをとっていた子が、高学年になると、友達から敬遠されてしまうのです。どんどんと自分の意見を言い、積極的に物事を考え、自分の意見を提案し、みんなもそれに従っていたのに、だんだん、その意見が尊重されなくなってしまうのです。

 

 なぜでしょうか。

 

 それは、落ち着きのなさが、他の子の考えや感じ方まで考慮する余裕を失わせているということにあります。他の人の考えをよく知り、考えながら、自分の意見をまとめ主張するのであればいいのですが、そうではなく、自分の思いつきでパッパッと意見を言っていると、次第にみんなが付いてこなくなるということです。低学年のころは、どんどん意見を言えば、その迫力に押されて、他の子もその意見に同調するようになります。小さいころは、それほど中身についてしっかりと考えませんから、誰かが意見を言えばなんとなくそれがいいと思ってしたがってしまうものなのです。

 

 しかし、思春期ごろになると、それぞれの子が自分なりの意見や考え方を持つようになってきます。自分のやりたいこともはっきりしてきます。ですから、他の人が、何かしようという意見に対しても、その迫力に流されないで、簡単には従わなくなってきます。逆に、あまり積極的に意見を言うと、うるさがられたり、反発されたりするようになります。思春期では、お互いの波長が合っていれば、何か言ってもすぐに同調して、うまくいくのですが、それほど波長が合っていなければ、やはりお互いの意見をよく聞いて、全体の意見をまとめていくことが大切になります。

 

 落ち着きがなく、小さいころは活発な子として、みんなの人気を得ていた子が、思春期になると、友達の中で浮いてしまうのです。こういった問題も思春期のなって現れてくることがあるのです。

落ち着きのなさのレベル

  落ち着きのレベルによって、問題がいつあらわになるかが違ってきます。身体がかなり固い感じであったり、身体の動きが止まらなかったり、強い泣きが現れると、乳児期から大変な子だなと感じられます。ただ、乳児期初期にはおとなしくて、次第に緊張が高まってくる場合や立ち歩くようになってから落ち着きのなさが顕著になる場合もあります。

 

 ちょこちょこ動いて落ち着きがない場合、すぐに怒りが現れたり、マイペースで動いてしまう場合には、幼児期から問題となります。また、子どもによっては、落ち着きがないことで人の話を聞かなくなり、言葉の遅れが見られる場合があります。多少すわっていられないのは大目に見られたりします。また、元気に喋ったり、はしゃぎがちの子は、元気な子として見られます。

 

 きちんと着席を続けられないと小学校に入ってから問題視されます。また、元気に喋り続け、にぎやかな状態が止まらないと、授業がうまく運ばなくなり、注意されることが多くなります。また、勉強に集中し切れない、といった精神の集中が問題になってきます。

 

 思春期になると、精神の集中がかなり問題となってきます。気が散りやすくて、しっかりと勉強に打ち込めないとか、飽きやすい、少し難しいことがあるとあきらめやすいといったことが問題となります。また、話をしていて、すぐに話題が移ってしまい、友達とじっくり話ができないと、落ち着かないヤツと見られてしまいます。

 

 青年期になると、にぎやかな刺激がないと気持ちが落ち着かないといったことが問題となってきます。おとなしい活動や真面目な活動もできないわけではないけれど、刺激的な活動の方がいいと、危険なことに挑戦したり、冒険をしようという欲求が強く現れてきます。スピードや激しく身体を動かす踊りといった活動に興味が向くわけですが、そのような活動にのめりこんでしまって、他人に迷惑をかけるとなると問題となります。

 

 成人期になると、物事を整理できないとか、物事を順序立てて考えられないとか、しっかりと計画を立ててしかもその計画を実行することができない、といったことが問題となってきます。仕事の手順や段取りがうまくいかないと、まわりの人にも迷惑をかけるということになります。

 

 どの世代であっても、こまることとして考えられることは共通していますが、世代によって、特に問題視される行動は違うのです。また、落ち着きのなさが顕著であれば、小さいときからすぐに問題になるわけですが、それほど目立たない落ち着きのなさは、成長してから問題となって浮き上がってくることになります。ただ、前にも書きましたが、落ち着きのなさを積極的に活用し、そうすることで気持ちの安定を図れるようになることが大切と言えます。

 

第5節 落ち着きを促す

落ち着きのなさと情報処理能力

 落ち着きがないことで、いい面もあります。落ち着きがないことで、情報処理能力が高まる場合があります。場合があるということで、いつでもそうなるわけではないので、気をつけなければなりません。

 

 どういうことかと言いますと、落ち着きがないということは、特定の刺激や情報に対して長くは注意を向けないということです。短時間だけ注意を向けて、次々と注意の対象を他の方へと向けてしまうことになります。すると、短時間で情報を処理する能力が育つ可能性があるということです。パッと見ただけでわかるとか、パッと聞いただけでないようが把握できるようになるということです。誰でも、絵とか文章をパッと見ただけで理解するように練習していれば、次第に速く理解できるようになってきます。速読などの練習に使われる手法です。これは、訓練によってそのような能力が身につくわけですが、落ち着きのない人は、訓練しなくても、いつも短時間しか注意を集中させないために、瞬時に情報処理� ��きる力が、自然に身についてくるということになります。

 

 1つのことがパッと理解でき、しかもサッサッと注意を変化させますから、たくさんの対象の情報をすばやく処理し、テキパキと状況判断したり、異なる情報を結びつけたりする能力が高まります。いわゆる頭の回転が速いことになります。

 

 このように「落ち着きのなさ」が、情報処理の高速化の方向に進むためには、パッと瞬時に注意を向けて理解できた、という成功感があること、そして、理解しようという意志をもって注意をアチコチに移動させることが重要です。

 

 それが逆に、注意が長続きしないことで、十分な情報処理ができなくなる場合がありますので、気をつけなければなりません。

言葉の遅れと落ち着きのなさ

 落ち着きがなく注意が長続きしないことで、十分な情報処理ができなくなって、言葉の発達が遅れることがあります。言葉がなかなか出ない幼児の中には、落ち着きのない子がいます。そういう子は、落ち着きがないために言葉が出ないのです。

 

 落ち着きがないと、まず、人の話を聞きません。人が絵本を読んで聞かせようとしても、フラフラ歩いてしまって聞けません。たとえ話をする人のそばにすわったとしても、そわそわとしてじっくり聞くことができません。そのために言葉がしっかりと頭の中に入らず、言葉の意味を理解することもできなくなります。もともと、言葉の発達は、しっかりと人の言葉を聞くことで、うまくいくようになります。

 

 また、言葉を言うためには、いろいろな音が出せないといけません。いろいろな音が出せるためには、やわらかく息を吐き出したり、舌や唇、顎が微妙に動かせることが必要です。こまやかな動きが出来るためには、身体、特に発声器官がリラックスしていないといけません。落ち着きがないということは、筋肉が緊張して動いてしまうということです。そのために、発声器官もしっかりリラックスできません。思うように口が動かせずに、目標とする声がうまく出せないことになります。声がうまく出せないと、人の言葉をまねすることが出来ません。すると、そもそも人の声をまねしようという気持ちが失われます。

 

 また、自分ができないことには興味が湧きにくいものです。自分がいろいろ声を出すことができず、言葉を話すことに困難を感じれば、人の話すことにも興味を持たなくなる傾向にあると言えます。

 

 ですから、落ち着きがないために言葉の発達が遅れている子の場合には、落ち着けるようにして、人の話をじっくり聞けるようにすることが大切です。また、リラックスできるようにして、やわらかく細やかに身体を動かせるようにして、声を出しやすくすることも大切です。

 


 ただ、前回も説明しましたが、パッと聞いて理解する力を身につけた子や口のコントロールがうまくいく子の場合には、落ち着きがなくても、言葉の発達に遅れを示さない場合があります。

落ち着きを引き出して言葉を発達させる

  落ち着きがないために言葉の遅れが見られる子の場合、落ち着きを引き出して、人の話をじっくり聞けるようにしたり、身体をリラックスできるようにして、やわらかい声が出やすくなるようにする働きかけを行うことが大切です。

 

 もちろん、がみがみ言って落ち着かせることはお勧めではありません。落ち着いたとしても、固い感じになってしまうからです。楽しい気分でゆったりできるようにすることが大切です。楽しい気分で落ち着けることで、人の話を楽しく聞くことができるようになります。話に対する興味が育ってきのます。

 

 お勧めのやり方は、くすぐって笑わせながら追いかけっこをして、すわらせる、を繰り返すということです。くすぐって追いかけっこをしたらよけい落ち着きがなくなるのではないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに下手なやり方をすれば落ち着きがよけいなくなります。落ち着きがなくなるのであれば、このやり方はやめます。基本的な考え方としては、くすぐったり追いかけっこをして気分を盛り上げては、すわらせることでホッとさせるというものです。そして、ホッとした感じを増やすことで落ち着きを増していくのです。このようなやり方がうまくできない場合には、子どもの手を持ってブラブラ揺らして肩を中心にしてリラックスさせるというやり方をします。詳しいやり方については、自� ��症の説明のときにも書きましたが、これからも書いていこうと思います。子どもによっていろいろなやり方がありますので、一概には言えませんので、おいおい説明していきたいと思います。

 

 だいたい今までの経験を言いますと、楽しく遊びながら、ゆったりすわれるようにし、絵本などで話を聞かせてあげると、話を聞くようになり、声のまねや言葉のまねが現れてきて、日常的な言葉の理解や言葉の使用が増えてきます。

 

 落ち着きのなさも個性と考えて、落ち着きのなさのよい点を伸ばしていくか、やはり落ち着きのなさを直して、ゆったりできるようにしていくかは、子どもの様子やまわりの人との関係から判断していくとよいでしょう。

落ち着きを得るための目標

  落ち着きのない子に対して、落ち着きの得るための目標としては、2つあります。1つは、集中力をつけるということです。これは、精神的な緊張を高め、その状態を安定的に維持することで、何らかの活動に打ち込めるようにすることを目標とします。

 

 もう1つは、ゆったりできるようにすることです。こちらは、精神的にリラックスできるようにして、ゆったりと人の話を聞いたり、何かを見たりできるようにすることです。集中力を高める方は、積極的に活動に集中できるようにする働きかけですが、リラックスする方は、与えられた情報に注意を向けられるようにするということで、受動的な注意を促すことになります。

 

 人のやることにあまり興味がない場合には、まず、ゆったりできるようにしながら、人の話を聞いたり、人の見せる絵本を見れるようにしていきます。興味がないにしても、話を聞いたり絵本を見たりするうちに次第に興味が現れてくるものです。そうしたら、くつろいだ状態を基本にしながら、言葉のまねを引き出すとか、絵を見て質問に答えるというように、次第に課題に集中できるようにしていきます。ゆったりすることで、次第に興味を高めて、注意の焦点化ができるようになってきます。

 

 もちろん、始めに集中力を引き出してから、次第にゆったりできるようにすることもできます。例えばくすぐり遊びが楽しめるのであれば、やみくもにくすぐることから、イクゾイクゾとゆっくり迫っては、くすぐるようにします。そうすることで子ども側に「来るな来るな」という期待を引き起こします。すると、こちらのくすぐりに対する能動的な注意が現れることになります。そうしながら、くすぐって笑わせた後にホッとできるようにしていきます。

 

 また、単に集中したり、ゆったりできるようにすることから、刺激の変化に注意を適切に向けられるようにして、テキパキと対応できるようにすることも将来的には大切なことです。外見的には、落ち着きがないように見えますが、刺激の変化に対応することで、きちんと状況に注意を向け続けるということになります。

刺激のない環境で落ち着く

  落ち着きを得るためには、基本的にはまず、静かな環境で落ち着けるようになることが大切です。しかし、身体が動いてしまう場合には、たとえ静かな環境と言えども、落ち着くことはできません。また、刺激を求めるタイプの子や人は、刺激の少ない環境でイライラして落ち着きがなくなります。

 

 身体が自発的に動いてしまうタイプの子は、身体に働きかけてリラックスできるようにしていくことが大切となります。寝かせてする足まげや手ブラブラの働きかけで、腰や肩の力が抜けるようにしていきます。緊張を高めては力を抜いてホッとできるようにする働きかけを繰り返して、ホッとできる時間が長くなるようにします。例えば、足まげの場合、子どもを寝かせて、足首あたりを持って、足の曲げ伸ばしをします。理想としては、ゆっくりと足の曲げ伸ばしを行えるといいのですが、もちろん身体が動いてしまうので、ゆっくりと動かせてくれません。むしろ、ゆっくりと動かそうとする働きかけに対して、力を入れて抵抗してきます。そのときに、こちらもグッと足の動きを止めるようにします。グッと� ��めると、力がよけいに入ります。緊張が高まったところで、こちらが力を抜くのです。働きかけを止めて引くという感じです。すると、子どもの方も対抗する相手が引きますから、少しは力を抜きます。そうしては、また、動きを止めて力を入れさせることを繰り返します。こうして、力を入れたり抜いたりさせて、次第に力が抜けやすくなるようにしていくのです。

 

 力が抜けやすくなれば、力を抜き続けることも増えてきます。そのうちに、こちらの働きかけに対して、力を入れて抵抗してきたら、こちらも力を入れて押し、さらに力を加えて、子どもの方がカックンと力を抜けるようにしていきます。こちらの力に屈服するような形で力を抜かせるわけです。そうして、力を抜いていられるようにしていきますが、始めは、静かな環境で力を抜いていられるようにすることが大切なのです。

刺激があっても落ち着く

  刺激がない静かな環境で力を抜き、リラックスできるようになったのなら、刺激があっても落ち着けるようにすることが大切です。そのやり方としては、(1)リラックスを深めるというやり方と(2)刺激があってもリラックスした反応が出せるようにする、(3)ストレスがたまりそうなときにリラックスが深められる、などがあります。

 

 (1)リラックスを深める、ということは、十分に力が抜けるようにし、かつ、リラックスした状態が持続するようにすることです。例えば、足曲げをするときに、次第に力が抜けるようにしていきますが、@いつも力を入れている状態から、A力が抜けることがあってもすぐに力が入ってしまう状態、さらに、Bしばらくは力が抜いていられる、C長く力を抜いていられる、というように変化していくわけです。力を長く抜いていられるようになった方が、少し刺激があっても、ゆったりし続けることができるようになっていきます。

 

 十分に力が抜けるようにしていくという面で考えると、筋肉の固さやリラックスの程度にもいろいろな程度があります。固さの面で見ると、@ガチッと全く力が抜けず、身体が動かない状態から、A固いけれども、グッグッグッと身体を動かすことはできる、B力は入っているけれども、グーと身体を動かすことができるという程度があります。さらに、C力が抜けたといってもなんとなくジワーと固さが残っている場合もありますし、Dすっかり力が抜けている場合があります。どの固さのレベルがいいということはありません。状況に合わせて、適切に固さが変化してくれればいいと思われます。ただ、力を抜くという働きかけに対して考えますと、力が十分に抜けた方がいいと考えられます。その方が刺激があった場� �にも、ゆったりした状態を続けることができるからです。また、十分に力を抜かすことができるようになることで、状況に合った適切な緊張の仕方ができるということにもなります。

軽やかに笑う

  刺激があっても落ち着けるためには、刺激があっても軽やかに笑って応じれるようになるといいと思われます。例えば、くすぐりをされると普通は、緊張を高めながら笑います。キーキーとかキャッキャッと緊張、興奮が高まって現れる声を出しながら笑います。しかし、リラックスしやすくなっていると、くすぐられてもハハハとリラックスしながら笑うことができます。そうすると、刺激があり、刺激を楽しんでもリラックスした状態を続けることができます。

 

 刺激をリラックスしながら楽しめることで、人とのやりとりもゆったりと楽しめるようになり、集団での活動もうまく行きやすくなります。人との活動で楽しんだりして興奮が高まっても、すぐにリラックスできるようになるからです。穏やかな感じで楽しめるようになると言えます。

 

 刺激をリラックスしながら楽しめるようになるためには、緊張を高めるような刺激があっても、すぐにリラックスできるようになることが大切です。例えば、足曲げでは、子どもが力を入れてきたら、すぐにグィッと押し返して力を抜かせるといった働きかけをします。こうすることで、力が入ってもすぐに力が抜けるようにしていくわけです。また、足曲げで十分にリラックスしたときに、くすぐって笑わせては、また足曲げで力を抜かせることを繰り返し、次第にリラックスしながら笑えるようにしていきます。

 

 さらに、イナイイナイバーのように、予期刺激と本刺激を組み合わせた働きかけを行って、予期刺激によって、本刺激を期待させ、本刺激が現れたところで「思った通りの刺激が現れた」とリラックスしながら楽しめるようにすることも大切です。イナイイナイバーで説明しますと、「イナイイナイ」と来たところで、次に「バー」と来ることを期待させます。そして「バー」と来たところで、期待した刺激が現れることで、期待による緊張を解除してリラックスしながら笑えるようにしていくのです。そうすることで、期待した結果が現れることを、リラックスしながら楽しめるようにしていきます。

 

 そうなるといろいろな場面で、期待した結果が現れて、リラックスしながら楽しめるようになってきます。

ストレス・マネージメント

  刺激があったり、ストレスがあっても、それを意識し、刺激やストレスに対抗して、リラックスできるようになれば、落ち着いた状態を持続させることができます。例えば、疲れたなと感じれば、横になって休むとか、何かやっていてイライラしてきたら窓の外を見ることで気晴らしをするとか、人前に出て緊張したなと感じたら、深呼吸をして気持ちを静めるといった心の状態に応じた対策を行うことができれば、落ち着きを増すことができます。

 

 これは、ストレス・マネージメントと呼ばれるやり方で、ストレスに対する自己コントロールを意味します。まず、自分の心の状態に気づくことが大切です。自分の心の状態に気づいた時に、リラクゼーションとか、瞑想といった対策が取れればいいわけです。また、「自分は落ち着かない方だけ」とか「飽きやすい性格だ」というように、自分の行動の特徴をつかみ、日ごろから自分で訓練することもではきればいいかと思います。一点を見つめるといった集中力を高めるような訓練を計画的に行うといったことです。気づきや自己コントロールが必要ですから、これはある程度理解力や意志力がないとできない方法ということになります。

 

 自己コントロールができる前に、まず、様々な段階がありますので、いきなりの自己コントロールは無理にしても、そのレベルを目標として、できることを増やしていくといったやり方が考えられます。例えば、自分の状態に気づくために、始めは、人が今こんな状態だねと教える、また、他の人の様子を見てその人がどんな状態であるかを教えてあげるという段階があります。「今、イライラしているね」「ちょっと落ち着かないね」と教えてあげて、それで「あっそうか」気づけばいいわけです。さらに、人が「今の気持ちはどんな感じ?」と質問することで、自分の状態について考え、今の状態に気づけるようにしていくという段階もあります。また、人と一緒に一日にあったことを振り返りながら、その時に� ��どんな気持ちだったと思い出せるようにすることも1つの方法です。そのような活動を通じて、自分だけで今自分の状態はどんな状態かがわかるようになるといいと思われます。

自分で力を抜く

  ストレスに気づくだけでなく、もちろん、実際にリラックスしたり集中できなければなりません。これも、始めから自分でできるわけではありませんから、少しずつできるようになることが大切です。始めの段階としては、人が身体を動かして力を抜くということです。どうしても身体に力が入ってしまう場合、「対抗してはやめる」というやり方と「対抗しては押し切る」というやり方があります。本人の立場から考えると、受動的なリラクゼーションと言えます。

 

 「対抗してはやめる」という手法は、人が身体を動かすのに対する抵抗として力が入った場合に、しばし押し合いをします。押し合いをするために、子どもの方はよけい力を入れることになります。そして、働きかける人が引くわけです。すると、子どもは対抗する相手が引くためにその分だけ、力が抜けることになります。大人が押すと力が入り、大人が引くと力が抜けることになります。これを繰り返していると、次第に力を抜きやすくなります。

 

 力を抜きやすくなってきたら、「対抗して押し切る」というやり方をします。手や足などを動かしているときに、子どもが力を入れてきたら対抗して押し合います。ここまでは「対抗してはやめる」と同じです。このあと、押し合いをやめて引くのではなく、力が抜けそうであれば、さらに押し続け、子どもがカックンと力を抜かせるようにします。つまり、こちらが引くことで、力が抜けるようにようにすることから、こちらが押し続けることで力を抜かせるようにするのです。

 

 そうして、力が入ったところで押して力を抜くようにしていると、さらに力が抜けやすくなり、次第に力を入れないままにゆっくり動かせるようにしていきます。すると変な力が入らなくなりますから、落ち着きが増すことになります。そうしたら、ストレッチングをしてゆったりできるようにしていきます。

 

 子どもの身体をこちらが動かすことで力が抜けるようになってきたら、今度は、こちらが直接身体を持って動かさないで、こちらの動きをまねしながら、力が抜けるようにしていきます。さらに、こちらが身体を動かさなくても、言葉かけだけで、子どもが自分で身体を動かして力を抜くようにします。そして、前回説明したように、自分がストレスを感じたときに、自分でリラックスできるようにしていきます。そうすると、刺激が多かったり、ストレスがたまっても、落ち着いていられるようになってきます。

ADHDの診断

  今まで、落ち着きのない子と表現してきました。最近では、診断を求める人も増えてきて、ADHDと診断されるようです。診断されることで、子育てに問題はなかったのだと、ホッとされる方もおられることでしょうし、これからどうなるのだろうと不安になられる方もおられるでしょう。私は、診断というよりは、子どもの行動を見て、適切な働きかけを判断し、働きかけを助言したり、自分が働きかけて見せるという立場の人間です。ですから、診断とは縁がないわけですが、参考のために診断基準などをご存じの方がいいでしょうから、簡単に説明いたします。

 

 診断の基準としては、アメリカ精神医学協会の作成した診断基準が使われます。診断の柱は、3つあります。

 

1.不注意

 

2.多動性

 

3.衝動性

 

の3つです。不注意とは、勉強や仕事に十分注意を向けられずに、うっかりミスが多いとか、課題や遊びの活動に注意を維持できない、指示に従うことが難しく、勉強や雑事、仕事などを最後までやり遂げることが困難である、課題や活動を秩序立てたり整理して取り組めない、がんばり続けなければならない仕事を嫌がったりやる気を示さない、活動に必要なモノがどこにあるのかわからなくなることが多い、余分な刺激ですぐに気が散ってしまう、日常的な活動を忘れることが多い、があります。

 

 ADHDの診断の診断の3本柱、不注意、多動性、衝動性のうちの2つ、「多動性」「衝動性」について見てみましょう。以下の項目から6以上が、不適応の状態で6か月以上続くこと。

 

多動性

 

(a)手や足をいつもそわそわと動かすまたはすわってもぞもぞする、

(b)すわっていなければいけないのに学級やその他の場所でよく立ち歩く、

(c)してはいけないのに走りまわったりどこかに登ったりする(青年期や成人期では、落ち着かない感じだけかもしれない)、

(d)静かに余暇活動をすることがなかなかできない、

(e)何かにせき立てられるかのように絶えず動いている、

(f)喋り過ぎるほど喋る。

 

衝動性

 

(g)質問が終わらぬうちによく答えを口走ってしまう、

(h)順番を待つことが困難、

(i)いつも他の人のやることを邪魔したりでしゃばったりする。

その他の条件

  障害を引き起こすいくつかの過活発か不注意の項目が、7歳以前に現れていること、

 

 学校とか仕事場、家庭といった2つ以上の場面で、その症状による障害が現れていること、

 

 社会生活や学校、仕事場で、臨床的に重大な障害が明確に現れていること、

 

 広汎性発達障害や統合失調症や他の精神病の発症過程で現れたものでないこと、また、他の精神的障害(例えば、気分障害、不安障害、解離性障害または人格障害など)によってうまく説明がつく

ものではないこと、

 

 また、青年や成人では、昔は診断基準を満たしていたのに現在では満たしていない場合もある。

 

 以上のような条件が満たされたときに、ADHDと診断されることになります。ただこのような基準は,子どもを見る人の見方に左右されることになります。例えば,イスにじっくりすわっていられないことをひどい状態と見るかそれほどひどいとは見ないかは見る人の判断に任されることになります。診断に慣れるために訓練はなされるものの,やはり判断する人の個人的差異が現れるのはしかたがないことと言えます。

 

 また,書かれた診断基準は,誰でもがある程度示す行動です。子どもはジーと注意を向け続けることが得意ではありません。誰でもイライラすることがあります。勉強しているときに身体を動かすこともあります。どのくらい現れていれば,ADHDと言うのかは,厳密に考えれば難しい問題と言えます。特に,落ち着きがない方であやしいなと疑われる子どもの場合,ADHDと診断するかどうかは,微妙な判断ということになります。ある人は,ADHDだと考えるのに,別な人はそうではないと意見が分かれることも起こってきます。

ADHDと診断されない場合

 以前にのべましたが,不注意や多動性,衝動性の程度がそれほどひどくなければ,ADHDとは診断されないでしょう。かなりひどい場合は,乳児期や幼児期の初期にADHDと見なされることになるでしょう。しかし,それほどでない場合は,診断はされないことになります。しかし,成長するにつれて,今まで問題にされなかったことも問題にされるようになることは起こります。例えば、ちょっと気が散りやすいといった問題、小さいときには、それほど問題とはならなかったのが、大きくなってから、

勉強に集中できないということで問題となってきます。ただ、今でもやる気がないなどと、別の問題として考えられてしまうことがあります。

 

 また、周りの人の見方によっても違ってきます。少しぐらい落ち着きがなくてもかまわないという家庭で育ったり、元気な子がいいといった幼稚園や保育園に通えば、落ち着きのなさはそれほど目立たなくなります。また、落ち着きがないにしても、満足がいくように活動できれば、十分に活動して満足感が現れ、落ち着きが現れてくることもあります。しかし、落ち着きがないことで、周りから注意されて、面白くないと感じてよけい落ち着きがなくなるということがあります。このように周りの見方だけでなく、働きかけの仕方によって、落ち着きのなさが変化します。

 

 このようなことがあるために、適切な働きかけが大切になります。落ち着きがない幼児であっても、ゆったりさせるための働きかけがなされれば、ADHDと診断されないままに、学校の生活にも適応できるようになります。気持ちや身体を落ち着かせるための働きかけが大切なわけです。このことについては、これからも説明していきたいと思います。

 

 また、診断基準にあったように、自閉的なために、人の意向や場面の要請にかかわらず、フラフラしてしまう子がいますが、このような場合はADHDとは診断されません。ただ、このような場合も、子どもの情緒を育て、対人関係が深まってくれば、人に合わせて動けるようになり、落ち着きが現れてきます。

以上が、 見方でした。


 


 



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