2012年5月12日土曜日

子どもたちはいじめをどのように考えているのか~日本の高校生が書いた「いじめ論」から~ - 論文・レポート


1.「ふつー」の子が書いた「いじめ論」の紹介

いじめは、子どもの生命をも脅かし、「この時間が早く過ぎればいいのに」というようなつらい時間をもたらすものである。また、いじめられ体験は、将来にわたって複雑な影響を及ぼすかもしれない。多くの子どもの日常生活にいじめが入り込んでいる今、いじめにどう対応するのかという課題は、現実にいじめに巻き込まれている子どもにとってこそ意味をもつものだろう。現代の日本の子どもたちは、いじめについてどのように考えているのだろうか。

 

ここで、高校生たちが書いた「いじめ論」1)を紹介したい。これは、2006年11月下旬、「いじめ」、「自殺」という言葉が繰り返し報道されていたころ、ある高校の必修科目「現代社会」の授業中に小論文の課題として書かれたものである。その際、「いじめ」についてやや突き放して、客観的に論じることという指示があった。さらに、全体を以下の4つのブロックに分けて論じるようにという課題設定があった。

1 「いじめ」事件「多発」をどう評価するか。
2 そもそも「いじめ」とは何か、その定義は何か。
3 本論として、「いじめ」はなくせる、なくせない、なくなる、なくならないか。
そして、その根拠は何か。
4 「いじめ」にどう対応するか。

この「いじめ論」を書いた高校3年生141名が通う高校は、大学進学にとくに熱心でも不熱心でもなく、全校を挙げての特別活動がとくに活発でも不活発でもない、首都圏にある普通科高校2)である。「いじめ論」を書いた生徒たちのなかには、いじめの被害者、加害者、傍観者としての実体験をもつ子も少なからずいた。

 

●<部内では、だいたい一ヶ月を目安に、人を無視してからかう「省き」があった。誰か一人を決め、ほかの部員は全員その人とは口をきかない。それが順番で回ってくるのだ。もちろんそれを指名していたのはN小から来た「いじめっ子」だった。私も最初は「いじめっ子」が怖くて、無視をされる側のことも考えず、「集団いじめ」の一人に入ってしまっていた。しかし、一年生の秋、私の番があった。誰も口をきいてくれなかったり、私の使ったボールは誰もさわらない...。すごく心が苦しかった。部活を辞めようとも考えた。そして何よりも、自分が相手にこんな思いをさせていたのかと思うと、とても悲しくなった>3)
●<みんながみんなしていたわけではないが無視したり、陰でこそこそと悪口を言ったりしていた。先生がいじめについて気づくと、みんなにそのことを話し一人一人謝らせたこともあった。しかし、その後もやはりいじめはなくならなかった>
●<前に、友達が悪口を言われたことがあった。仲の良い友達だった。辛い思いをしたのもしっている。だけど私は、その子のために何もしてあげることができなかった。何もしない自分も、いじめをしている人とかわらないのではないかと、あとで後悔した。そんなことにも負けない友達はとても強い子だと思った。いじめは自分ではしていないつもりでも、誰かを傷つけているのかもしれない>
●<小学生のころ、いじめを見たことがある。一人の女の子が、一人の女の子に継続的に嫌がらせをしていた。いじめられていた子は常に笑顔でいたためか、嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。いじめている子曰く、これは"ゲーム"なのだそう。周りの子や私は、いけないとわかっていても、気の強い彼女を止めることは出来なった。この問題はやがてクラスで話し合い、無事解決することが出来たが、やはり世の中は、弱肉強食だと感じた>

 

そして、<そもそも「いじめ」とはなんなのか。正直、私はこの論文を書くまで考えたことがなかった。だから、「いじめられる側」と「いじめる側」の気持ちがわからない>というように、いじめという単語が本人の意識に上ってくることさえもなかったのではないかと思わせるような子もなかにはいる。

 

「いじめ論」は、温度差はあるにせよ、さまざまな立場でいじめの現実をすでにくぐり抜けてきて、<高校生くらいになるといじめなんかほとんどなくなる>というように、おそらく現在ではいじめの渦中には巻き込まれていない子が大半であろう高校生たちが書いたものである。いじめ体験記4)とは違って、自分の気持ちにはあまり力点が置かれていない、いじめとは心情的にも環境的にもある程度の距離が保たれている文章が多い。


2.「いじめ」とは何か


デューク大学は、にどのような状態です。


この「いじめ論」から、現代の高校生たちが「いじめ」をどのようなものだと考えているのかということを、できるだけ高校生たちの文章を引用しながら浮かび上がらせていく。「そもそもいじめとは何か」という問いに対して、自分なりに「いじめ」の定義を試みた子は61人いた。全体の43.3%にあたる。

 

2-1.「いじめ」の具体例
最初に、子どもたちが「いじめ」だと考えている具体例を紹介する。具体例から高校生たちが考える「いじめ」の定義へと抽象度をあげることで、子どもたちの世界に日常化している「いじめ」イメージの理解を深めていきたい。


●<携帯メールで悪口を言い合い>
●<悪口の手紙を回されたり>
●<ブログで友達をいじめる会などのスレッドを立ち上げる>
●<嫌いな存在を邪魔者にし、相手にしない>
●<首を絞めての失神ゲーム>
●<靴やノートを隠されたり>
●<みんなと違っている人を非難する>
●<立場的または権力的に強いものが弱いものをバカにする>
●<○○君は○○で汚い。だから○○菌>
●<存在をないもののようにシカトされたり>
●<囲まれて叩かれた>
●<軽くちょっかい>
●<冗談でちょっとした悪口みたいなこと言って>
●<汚い言葉を浴びせられたり>
●<嫌味を言われたり>

 

「いじめ」を大きく分けるなら、被害者側と「身体接触をもつ『いじめ』」と「身体接触をもたない『いじめ』」の2種類となる。「身体接触をもつ『いじめ』」は、<殴る>、<蹴る>、<集団暴行>、<格闘技の真似事>といったものになる。<パシリ>や<鞄持ち>、<かつ上げ>などは加害者側と被害者の身体接触があるかないかは微妙なところだが、身体接触をもたなくてもできる行為なので後者にあたる。そのほか、<悪口>、<無視>、<仲間はずれ>、<菌扱い>、相手の所有物に損害を与える、言葉で相手側に苦痛を与えるなどが「身体接触をもたない『いじめ』」になるだろう。

 

「いじめ」の具体例として多くあげられていたのは、圧倒的に後者の<言葉や態度で表す「精神的いじめ」>のほうである。とくに、<言葉の暴力>についての記述が45ヶ所もあり、目立っていた。まさに、<現代の「いじめ」は精神的に追いつめる陰湿ないじめが多数>なのではないだろうか。

 

2-2.被害を受ける側の苦痛への着目
「いじめ」を定義した高校生のうち、43人、約7割に共通していた定義の特徴がある。それは、「いじめ」が<人を傷つける>としている点である。前述のように、身体接触の有無で「いじめ」が分けられている場合は、「いじめ」の種類によって、傷の種類も「体の傷」と「心の傷」とに分かれる。ここでもやはり、<嫌な思い>、<つらい>、<不快感>と言い方はさまざまではあるが、いじめ被害者が心で感じる苦痛を「いじめ」の定義に組み込むことがより強調されていた。

 

さらに、苦痛を受ける人の主観性を重視した「いじめ」の定義を述べた高校生が18人、全体の12.8%もいた。これは、自分なりに「いじめ」の定義を試みた高校生のうちの約3割にあたっている。


●<そもそも、いじめというものは、漠然としていてわかりにくい。周りから見ていじめでないと思っても、本人が辛かったり、苦しい思いをしていたらいじめである>
●<いじめの加害者は、いじめをしているという自覚がないということが多くある。そもそも、いじめに基準はあるのだろうか。どこからがいじめで、どこからがいじめではないのか、そんな基準はどこにもない。この基準を決めるのは、いじめられていると感じる被害者だけであって、他の誰もがこの基準を決める事はできない。だから、いじめを発見する事は難しく、改善することは簡単ではないのです>
●<そもそも「いじめ」とはいじめられている人がいじめだと感じたり、まわりから見ていじめられていると思ったら、それは「いじめ」になると思う。いじめている人がどう思っているかはあまり関係がない。いじめている人はただ何となくとか、ウザイと決めつけているだけでいじめたりするからだ。いじめだと感じたらだけではいじめをうけている人が多くなってしまうがそれはいじめだし、まわりの人もいじめだと思っているならそれは確実な「いじめ」になっている>

 

そして、このように「『いじめ』=『いじめ』られる側が『いじめ』だと思うこと」とした高校生は、「いじめとは何かわからない」と答える傾向が高かった5)。「いじめ」とは不明瞭なものだということを、23人の高校生、全体の16.3%がほのめかしていた。


連邦大学の農村では、リオデジャネイロを行う

●<私は「いじめ」という言葉ほど曖昧で不確かなものはないと思う。なぜなら定義というものが確立されてなく、被害者側の気持ち一つで変化してしまうものだからだ。例えば加害者がコミュニケーションの一つとしてやっていたことも被害者側が「いじめ」だと言ってしまえば、それはいじめになってしまう。そして外から見れば「いじめ」でも、被害者がいじめじゃないと言えば、それはいじめじゃなくなるのである>
●<いじめの定義なんてよくわからない。それにいじめの定義なんて決められないはずだ。それは受け手のほうがどう受け取るかでよって違うはずだ。たとえばA君にとってはふざけているだけかもしれないが、受け手のB君にとってはいじめられていると思うかもしれないし、A君が同じ態度でC君に接しても違う受け手のC君にとっては一緒にふざけているだけと思うかもしれない。もちろん誰がどう見てもいじめと判断できることもある。しかしいじめの定義はそんな簡単に決められない>
●<そもそもどこからどこまでがいじめなのか。人によって、考え方や感じ方は違うのだから、答えなどないし、境界線などないのだ。本人からしたらいじめだと感じても、周りから見たらいじめだと判断できないこともあり、助けることができない場合もあるのだ。つまり、いじめられている本人は口に出して、周りに助けを求める必要があるのである。しかしいじめられている事実を人に打ち明けることはなかなか勇気がいることで、もしかしたら自殺をするよりも勇気がいるのかもしれない。だからといって自殺をしていいわけではないが>

 

文部科学省6)や警察庁7)、日本の代表的いじめ研究者の森田洋司8)、そして国際的にも有名ないじめ研究者のダン・オルウェウス9)などの「いじめ」定義においても、「苦痛」という言葉がいずれも含まれている。しかし、言うまでもなく「苦痛」とはファジーな感覚である。「いじめ」と「苦痛」が切り離せない以上、「苦痛」という主観性を含めながら「いじめ」を客観的に定義することは難しいと言わざるをえない。

3.いつからが「いじめ」だと線を引けるのか

「なぜいじめが起こるのか」という問いかけはなかったが、多くの高校生たちが「いじめはこうして始まっていく」ということを述べていた。<理由などどうでもいい。とにかく「いじめ」る>というように、最初から誰かをいじめるという行為自体が目的で始まるいじめもある。ストレスのはけ口として(19.9%)10)、楽しむため(7.8%)、周囲との同調性を保つ必要から自己防衛のため(12.1%)、もしくは他者に自分の存在を知らしめて優越感・安心感を得るため(15.6%)、というような背景もあるのだろうが、とにかくいじめが始まってしまうのだ。

 

つぎに、その相手だから生まれる好き・嫌いという感情から発せられるコミュニケーションが、相手に苦痛をもたらすいじめに向かって徐々にエスカレートしていく場合が「いじめ論」から読みとれた。第一に、「好き」などの相手に対する肯定的感情を基底にしたコミュニケーションから、いじめが発生するパターンである。第二に、「嫌い」という否定的感情が根源となっていじめが起こる場合もあることがわかった。前者のパターンについては、「いじめ論」を書いた高校生のうち12.8%が、後者については24.8%が言及していた。

 

3-1.好きなのに、いつのまにか...
まず、好意や信頼という感情のもと、<冗談>や<からかい>、<遊び>としてお互い楽しんでいるような要素があった相互行為が、だんだんと<度が過ぎていけば、「嫌」「不快」なんて言葉では括れない心の痛み>をどちらか一方に生み出すようないじめになっていくパターンがある。<いじめている人達は最初は「いじめている」という感覚は無い。しかし感覚が無いだけで行動はエスカレートしていく。ここに「いじめ」はない。逆にいじめられる人達は、初めこそちょっかい等と思えるかもしれない>というように、好意をよりどころにしてお互い暗黙の了解で「いじめ」ではないとされていたコミュニケーションが、後に一方が<不快感を持ったり苦しかったり辛いと思った>りするいじめとなっていくのだ。


"ボウヤーの痛み"ワシントン

●<友だち同士でふざけあうときにも、平気で「馬鹿」や「死ね」などの暴言を口にする。それは、心のどこかで相手が許してくれるという信頼を寄せているからである。子供の年齢が下にいけば行くほど、「いじめ」とふざけあいの境界線の見分けがつきにくくなる。そして、周囲が「いじめ」かふざけあいかの見分けがつくようになった頃には、すでに手遅れとなっている場合が多いのである>
●<現に学校で格闘技の真似事をして、殴ったり蹴ったりしているのを見たり聞いたりした。それに近所の子供達だって、ウルトラマンやいろんなヒーローの真似をして戦って遊んでいる>
●<最初は冗談混じりでからかったりしていたのが、段々楽しくなっていくのか、エスカレートしていって最終的にはいじめ行為になってしまう。してる方の人数が多ければ多いほど、いじめられている子は何も言えなくなると思う>

 

3-2.嫌っていたら、いつのまにか...
つぎに、<うざい>、<キモイ>、<むかつく>といった嫌悪感や侮蔑、報復感情といった気持ちの発露やそういった気持ちの微妙な伝染から、<けどなぜそれでいじめにまでいくのだろうか>という疑問は残るものの、いじめが起こってしまうパターンがある。

●<被害者Aと加害者Bははじめ仲のよい友達だったとします。ある時、AとBが喧嘩したとします。その時明らかにAの方が悪いのにBが謝ったとします。そこでAがさも当然とすればBはおもしろくありません。そこでBが友人Cにそれを話すとCもAのことが嫌いになります。そしてその連鎖が続きAはいわゆる「ハブ」にされ、そしてそれがいじめとなります>
●<クラスに一人や二人ボス的存在の子が居て、「今のあいつの態度うざくない?明日からシカトしよ」などの一言で始まる。そして一部の生徒から始まり、やがてクラス全体で、その子のことをシカトするようになる。それがだんだんエスカレートしていき、その子の物を隠したり、「バカ、死ね」などのことばを発するようになる。そして誰かが、止めようと、その子をかばったりすれば、今度は止めようとした子が、「いじめ」にあう。こうして「いじめ」は次から次へと発生するのである>
●<今は欲しいものは何でも手に入る。だから、なかなか手に入らないとむかついて、何かに当たってしまう。いじめと似ているところがあると思う。人が自分の思う通りにならないと、その人にきつくあたったり、行動が遅い人を見ると、いらいらしてしまう。その結果、いじめられる人は辛くなる>

 

しかし、他人に対して何らかの否定的感情をある個人がもつことで、その感情や<自分の嫌いな人のことを周りに「俺、あいつのこと嫌いなんだよね」なんて言っている>行為が他の人たちにも伝染して、他の人たちともその気持ちや行動が共有されるようになるとしても、どの時点で「いじめ」が発生したと断定できるだろうか。行為者同士の関係性やお互いの暗黙の了解といった文脈次第なので、いじめとして始まったのではなかったかもしれない行為を、ここからが「いじめ」だと客観的に時間上の区切りを引くことは難しい。

 


4.「いじめ」を定義することは難しい

高校生たちの約2割が<一口に「いじめ」といっても、どこから「いじめ」になるのかすら判断はできない>というように、「いじめ」と「いじめ」以外の行為の境界線が明白でないことを述べていた。そのうえ、「『いじめ』とは何か」という問いそのものに答えていない子が59人もおり、いじめの定義を試みた子とほぼ同数にも及んでいる。答えを拒否することで答えが存在しないことを示しているのか、答えがわからなくて答えていないのかは判断しかねるが、高校生たちが「いじめ」を定義し難いものととらえているのは間違いなさそうである。
 例えば、「パシリ」という行為でさえも、一言で「いじめ」だとかたづけられるかどうかは微妙だとされていた11)


●<A君がB君にパンを買いに行かせたとしよう。これは「パシリ」であって、「いじめ」に当たるのでは無いのか?だが、A君は文句を言いつつもパンを買ってきてB君と楽しそうにおしゃべりしてるのだ。要はやられた方がいじめられてると思った時、初めて「いじめ」なのだ>

 


上のような場合、もしB君自身がA君との関係性や何らかの位置を保つためにすすんで「パシリ」をしているとしたら、この「パシリ」もいじめになるだろうか。<いじめの定義なんて決められないはずだ。それは受け手のほうがどう受け取るかによって違うはずだ>と述べられていたように、当事者ですら、<そもそも「いじめ」とは一体なんなのか>よくわからなくなっているのかもしれない。被害者側がどう思っているかという当事者性の点でも、時間軸の点からも、<いじめの定義はそんな簡単に決められない>のだ。人と人との関係から生じるものを、誰が、どこからどこまでが「いじめ」なのか、厳密に定義できるのだろうか。「いじめ」の定義には、境界線の曖昧さやグレイゾーンの広さ、コンセンサスの低さ、反駁の容易さ等の� ��題がつきまとうことになる。


万人が一致するいじめの定義が困難であるため、いじめをどう定義するかをめぐって人びとがぶつかりあうことになってしまう。それゆえ、「自殺した本人がいじめられていたと文字どおり命かけて主張」12)する場合ですら、子どもよりも圧倒的に力をもつ大人が「いじめ」はなかった、これは「いじめ」ではないと否定する事態が起こりやすくなってしまう。いじめは単なる事実ではなく、そこになんらかの解釈や意味づけが加わった「いじめ」現象であるという視点が欠かせない。そして、誰が「いじめ」を定義することに対して力をふるうのかをよく見極める必要がある。最後に、いじめを「いじめ」と認識せずとも、被害を受ける側の「痛み」に寄り添うことで、今ここにあるいじめに向き合うことはできることを希望としておきたい。


__________________________________________________________

〔注〕

1) 事前に特別な「いじめ」学習があったわけではない。教師側からの狙いとしては、現代社会の学習と同時に、「いじめ」を客観的に論ずる過程で自分の身近な「いじめ」を克服する理性的な力を自ら獲得するのではないか、という読みと期待があったそうだ。
2) 1979年11月以来今日に至るまで、「週報」という毎週金曜日に発行される学校新聞に生徒たちの文章やイラストが掲載され、学校関係者・保護者はもちろん学校近隣にも「週報」が配布されてきた。自分たちの意見表明が受けとめられているという「学校文化」が、この生徒たちの間で培われてきているという特徴がこの高校にはあるかもしれない。田中裕児(2003)「学校文化を織り成す週刊学校だより『週報』」『教育』第53巻第1号を参照。
3)小論文から引用した文章は、ヤマカッコでくくっている。なお、明らかに誤字・脱字を疑わせる引用箇所には修正を加えた。
4) 豊田充(1994)『「葬式ごっこ」――八年後の証言』風雅書房、「進研ゼミ」中学講座編(1997)『学校で起こっていること――中学生たちが語る、いじめの「ホント」』ベネッセコーポレーション、ジョディ・ブランコ(2004)『"いじめ"という生き地獄――少女ジョディの告白』ソニー・マガジンズなどが、いじめ体験記として参考になる。
5) カイ2乗検定から、「いじめ」という概念をとらえどころがないものとするかは、当事者性の重視の有無と関連するという結論が導けた。
6) 文部科学省「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」を参照。
7) 警察庁(2007)『警察白書』を参照。
8) 森田洋司・清永賢二(1994)『新訂版 いじめ――教室の病い』金子書房を参照。
9) ダン・オルウェウス(1995)『いじめ――こうすれば防げる』川島書店を参照。
10) カッコ内の%は、「いじめ論」を書いた141人のうち、そのことに言及していた者の割合である。
11) 一見疎外されていそうな「パシリ」が、「パシリ」だからこそ実はクラス全員とつながることもあるいう点を指摘しているのが、瀬尾まいこ『温室デイズ』角川書店、2006年。ここでは、自他共に認める有能な「パシリ」の斎藤君は、「パシリ」だけれども、いじめられているわけではない。
12) 鎌田慧(1998)『いじめ社会の子どもたち』講談社の186頁から引用。

教育科学研究会編(2007)『なくならない「いじめ」を考える』国土社に収録の「『いじめ』はなくさなくてはならないか」を大幅に加筆・修正しました。



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