2012年5月31日木曜日

Notebook: ナイアガラの滝周辺観光 アトラクション |  カナダへ行こう!



ナイアガラ滝の周辺には、様々な観光アトラクションが用意されています。
お子様連れや、数日滞在されるなら、これらのアトラクションを楽しみましょう。
ナイアガラ・オン・ザ・レイクには、このバスが行かないことが残念です。

ピープル・ムーバー

ナイアガラ川沿いを走るバス  ピープル・ムーバー。
ピープル・ムーバーは気楽に使える便利な観光バス
滝のある場所から端まで観光場所を回ってくれます。

滝観光だけなら、半日あれば見回れます。
数日滞在される場合、様々なアトラクションで
楽しみましょう。

+  ピープルムーバー
+  ピープルムーバーの地図


ピープルムーバーは、それぞれの滝のアトラクションに停留場があります。
各アトラクションの詳細は、ナイアガラ滝 観光ページにて

+  テーブルロック
+  ジャーニー・ビハインド・ザ・フォール
+  霧の乙女号サイト

リバーサイドは、ずっと公園になっていて、散歩が出来ます。
ピープルムーバーに乗らなくても、散歩気分でめぐれます。


ナイアガラの滝カナダのプライベート結婚式

ナイアガラへ来たなら、これに昇らなければ。
展望台があり、上から眺める
ナイアガラの景色を360度楽しめます。
360度回転するレストランもあります。

+ スカイロンタワー

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2012年5月19日土曜日

FUNKなLiveアルバム #2 (#567) - 吉田英樹の音楽コラム〜Soul Singer、hidekichiがSoul Musicについて語る。



Kool & The Gangが来日しますね。大阪Blue Noteに来たのが2004年12月ということなので、5年半ぶりの来日、東京へはと言うと13年ぶりらしいです。'69年にデビューと言う事なので、70歳近いのか?と思いきや、リーダーのRobert "Kool" Bellは今年還暦を迎えると言う。最年長であったGuitarのCharles Smithが残念ながら2006年に亡くなったが、彼でさえ'48年生まれである。

Koolの弟であり最重要人物であるKalis Bayyan(ex.Ronald Bell)が当初は来日予定であったが来れなくなったようだ。彼はSax & Keyboardプレイヤーとしてだけでなく、作曲、アレンジ、プロデュースまでこなす才能溢れた人なので、非常に残念だ。

彼の弟でAmir Bayyan(Kevin Bell)もサポートで来日するが、元Kay-Geesのリーダー兼Guitaristであり、最近のKool & The Gangのツアーにはレギュラーで参加しているようだ。さらにプロデューサーとしても活躍している。

さてさて、【FUNKなLiveアルバム】シリーズを始めたが、今回はこのKool & The GangのLiveアルバムから紹介しよう。

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2012年5月17日木曜日

楠神はいじめられキャラ?|川崎フロンターレ夫婦サポのブログ


おもしろいよねぇ。

3点取ってチームを救ったヒーローに、先輩たちは襟を締めあげるは、

顔をつかむは、の暴行。

ロッカールームでは「(代表を)まだあきらめていないと言え」と笑え

ないジョークまで飛ばす。

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2012年5月15日火曜日

第5回 司法試験に合格した後、直接司法修習生にならず、1年間のギャップイヤーを取得した気鋭の弁護士 弁護士 木下万暁(きのした まんぎょう)さん-私のGAP YEAR時代


やりたいことが特になく、成績の制約で、大学は法律でなく政治学専攻に

Q:大学は付属高校(慶応)から、内進で決まったのですね。何故、法律学科でなく、政治学科を選ばれたのですか?
 選んだというより、そこしか行けなかったという事情で政治学科になりました。内部進学の場合、大学での学部は高校の成績上位者から行きたい順に決まります。私の代は文系では法学部法律学科が人気で、まだできたばかりの頃の慶応SFC(湘南藤沢キャンパス)の総合政策・環境情報学部も人気がありました。高校時代はアメリカン・フットボール部での部活に一生懸命になっていて、気づいたらひどい成績。そこから商学部、文学部、政治学科からどれか選んでいいよと言われたものの、商学部は数字は苦手なのでパス、そして文学部で勉強するというのは自分には全く想像できない。残すは法学部政治学科ということで、そういう消極的な理由で政治学科になったんです。

Q:本来、法律を勉強したかったのですか?
 はっきりしたものでもなく、してもいいかなという程度です。高校では部活でいっぱいいっぱいで将来のことなどは特に考えていませんでした。やりたいことも特になくて、良く分からないけど政治学科でよいか、と・・・。

Q:大学入学で、決め込んでこれっていうことではなかったわけですね。選べる中で選んだのが政治学科だったということでしょうか?
 はい、そこしかいけないし・・・(苦笑)。

大学2年から始めた司法試験勉強


Q:司法試験に大学4年生(1998年)の10月に合格されていますが、どんな学生生活だったのですか?
 大学1年時は高校のアメフトで部活が一緒だった友人とダイビングのライセンスを取りに行ったり、旅行やバイトをしたりという生活。大学2年の4月から徐々に司法試験用の勉強を始めまして、当時1日5~6時間くらい勉強していました。あとは普通の大学生活を送る、ただ3・4年生になると司法試験の勉強が相当忙しくなるとわかっていましたので、大学1・2年生のうちにほぼ卒業単位を取り終えました。これも政治学科の特殊なところですが、履修は何単位取ってもよくて、月曜日朝9時台から土曜日の2時頃の最後のコマまで、全コマ履修することができました。実際授業に出てみて興味が持てたり、ノートがあったりすれば全部試験を受ける。逆に、試験を受けなければ何故か最初から授業を履修していないことになるという変わった� �ステムでした。確か144単位で卒業だったのですが、2年生修了時点で140単位を取りました。あまりいい成績ではなかったのですが・・・。なので大学3年の前半に三田キャンパスに数回行ったくらい。それ以降何やっていたかというと朝7時半から夜11時くらいまで取り憑かれたように司法試験の勉強をしていました。

Q:1、2年のうちに詰めて単位を取られたのですね。
 今のロースクールはちゃんと授業を受けて議論してっていう、法曹教育として非常にまっとうな教育だという気がしているのですが、昔は覚えて考え方を身につけて、試験を受けて受かればいい。大学の成績も関係ないですし。だから大学は大学でさっさと卒業し、後は司法試験に受かればいいという感じで勉強していました。最近は就職活動の時に大学やロースクールの成績の提出を求められることも多いようですが、当時言われなかった。言われていたらまともに就職できなかったかもしれませんね。

Q:司法試験を受けようと思ったのはいつですか?
 大学1年の時です。旅行やバイト生活も飽きてきて、そろそろ本気で何かに取り組もうかなと思い始めていた頃でした。夏休みに、時間があったので車で九州以外の全県を回ったりしたのですが、途中で飽きちゃいまして、これは何かもう少し具体的な目的があることをやらねばと。周りを見ると、高校時代のチームメイトは朝から晩までアメフトをやっている。自分もそれくらいの時間を費やして、気合を入れて何かに取り組もうかと思いました。

Q:お父さんは弁護士と伺いました。当時のご自身のキャリアイメージはお父さんでしたか?
 それもひとつあります。他方で小さい頃、父親には反発があって弁護士にはなるものかと育ったところもあって、複雑なところもありました。ただ、小さい頃から周りの大人から「大きくなったらお父さんの事務所を継げば良いんじゃないか」みたいなことを言われて育ちましたので、弁護士という職業はやはり気にはなりました。気になってしまった以上は必ず30歳とか40歳とか人生どこかのタイミングで「あの時司法試験やっとけばよかった」と後悔は必ずするだろうと。だったら今受かって、そんなこと考えなくてもいいように好きなことをやろうと思ったのが、スタートなんです。また、当時はこれから就職難になると言われていた時代。ならば司法試験受かりましたと言えば、就職も何とかなるだろう、そんな感じでした。ホ� ��トに後ろ向きな話ばかりで恐縮なんですが・・・。例えば、当時映画が好きで毎日のように映画を見ていたのですが、映画の配給会社の買い付けは楽しそうだなとか、でも私自身、何のバックグラウンドもないんですね。大学で勉強したことも何か役に立つわけではないですし、英語やフランス語が話せるわけではない。でもそういう時に法律が分かります、契約交渉できますとか言えば面白そうな会社に就職できるんじゃないかなとか考えてました。また、勉強しているうちにこれが楽しいと思うかもしれない。プランとしては25から20代後半くらいに受かれば、人生60年から80年もあるので、そこからスタートでもいいだろうと。父はもともと会社で働いた後に辞めて、30過ぎに弁護士になっているのですが、それを見ていて、人生生き� ��がなくても大丈夫だろうという安心感もありました。

予定より早く受験生活が終わってしまい、びっくりしたのを覚えています


Q:それで、大学4年の10月に、1回目のチャレンジで合格した?
 はい。自分自身、予定より早く受験生活が終わってびっくりしたのを覚えています。模試を受けているとこれは合格してもおかしくない成績だろうとかいうのは出てくるんですが、合格率を考えると、なかなか合格することのイメージを具体的に持つのは難しい。もちろん、落ちたくないとか、自分は絶対に落ちないとか日々考えて勉強をやっていたものの、受かったらもう司法試験の勉強をしなくてよくて、そこから先は研修が待っていて、2年後くらいは弁護士になっていて、というそんな具体的なことまで考えられなかった。落ちないイコール受かるは当たり前なんですが、それが自分の生活にどう影響して、自分の将来についてどういう決断をしなきゃいけないのかは全く考えていなかった。

Q:当時の試験制度はどのようなもので、合格率は何パーセントくらいだったのでしょうか。
 昔は1年に3階層の試験がありました。今は試験制度が変わってしまいましたが・・・。5月の第2週「母の日」の日曜日にマークシートの択一で、最初が短答式、全国でだいたい5分の1くらいに絞られます。論文が7月20日頃「海の日」あたり、これでさらに4分の1から5分の1になります。9月末にだいたい800人~900人くらいが残って、最後の口述試験で10%くらいが落ちる。最終の発表は確か10月末くらい。私の時で受験者は3万人くらいで、最終的に800人くらい合格だったと思います。合格率にすると2.7%程度でしょうか。

Q:98年当時、学部生で合格した人、あるいは1回で合格した人はいたのでしょうか?
 結構いますよ。合格するまで大学を卒業しない人もたくさんいるので、数字の解釈は色々ありそうですが、当時大学生で合格するのは全体の3割くらいだったと思います。また、1回で合格するのは合格者の1割くらいなのではないでしょうか(注:法務省によると平成10年度は67人で8.3%)。

Q:根を詰めて、集中的にやる試験なんでしょうね(笑)。
 当時、私や私の周りにいた大学生としては多分それが多数派だと思います。ただ、ひとたび研修所に入ると意外とそうでもなかった。例えばクラスで私の隣に座っていた方は元日銀の65歳近くの方でしたし、会社で働きながら司法試験に合格しましたとか、主婦やりながら勉強して受かりましたとか、色々な方がいました。私は世の中を何も知らず、「大学からそのまま来ました」というのが恥ずかしいような、そんな気持ちになりました。

Q:当時、法律以外の学問をやっていた人で、司法試験に合格した人数はどれくらいだったのでしょうか?
 私の大学の同じ学年でどれくらいいたかどうか記憶にありませんが、政治学科の先輩で受かった人が数人いたと思います。ちなみに、私の大学では、政治学科というところに入った後、法律の授業が好きな人が法律学科に転科するという方法もありました。ただ、それやると、1年生の法律学科の授業を取り直さなくてはいけない。私は学校はあんまり好きじゃなかったので、そこまでこだわって、転科はやりたくないなと思いました。

Q:転科はかえって、司法試験にはロスになってしまうという感じでしょうか?
 当然学ぶものはあると思うのですが、少なくとも私にとっては学問的に法律が好きというスタートではなかった。まず司法試験に受かってみて考えようと考えて、受かる最短コースをということで、受験予備校に行って受けました。当時資格ブームが始まった頃だったので、よくあるパターンなんです。かなりの人が予備校に通っていました。

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2012年5月13日日曜日

日本人が知らないニッポン


このコンテンツは、2010年2月に名古屋国際センターで開催された講演内容を編集したものです。

「日本人の知らないニッポン」 オープニングビデオ "UNION"  

THINKER "Union" from manon film worx on Vimeo.

「日本人が知らないニッポン」 −隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち−

今回のテーマである「日本人が知らないニッポン」では、世界から見た近代・日本の歴史を振り返りながら、現在の世界の流れを読み解いていきます。

前回のイベント「新型インフルエンザ・ワクチンは打ってはいけない」同様、今回もこれまで慣れ親しんできた一般常識からかけ離れた内容や、テレビまたは新聞のニュースでは伝えられていない情報がたくさん含まれています。これまで一度も耳にしたことのない事柄や中にはとても信じられないような情報もあるでしょう。もし、そのような事柄に疑問をもたれたら、これを機会にご自分で一度調べてみるようお薦めいたします。いずれにせよ、このイベントから、世界を見る新しい視点を身につけていただけたら幸いに感じます。

それでは、本編に入っていきます。

2010年2月の時点で、最近日本の ニュースに出てくるものといえば、何でしょうか?

「普天間の米軍基地再編問題」「長引く不景気」「円高」「国家財政赤字」
「地球温暖化対策」また「JAL再建問題」など、問題が山積みです。

一方、世界に目を移してみても、よく耳にするのはアフガン・イラクにおける長引く
「対テロ戦争」「イランの核開発疑惑」「温暖化をはじめとする環境問題」
「波乱含みの今後の世界経済動向」など。

国内同様、世界にも問題は山積みです!問題の多さと複雑さゆえに、世界中のすべての問題が解決する日が来るのだろうか……と疑問に感じます。

専門家ですら解決できないこれらの問題、ましてや一般市民の私たちにできるわけがない。
到底、無理なことだと、考えることさえあきらめてしまいがちです。
「私たちには、所詮、関係ないと……」

でも本当にそうなのでしょうか?

たしかに、世界に起きている問題をひとつひとつ別々に見ていくと難しくみえます。
とても解決できないようにみえます。

また、日ごろのテレビのニュース番組を見ても、表面的なことばかりを専門家が難しそうに議論しているだけで、問題の「本当の根源」にふれることはありません。

そこで、今回は、あらゆる世界の問題の「本当の根源」を明らかにするために歴史を探ってみました。すると、大変驚いたことに「過去」「現在」そして「未来」までもが、一本の線で繋がり、とてもシンプルに掴むことができました。

そう、この言葉のとおり、まさに " 歴史の中に未来の秘密があった " のです!

歴史をさぐると言っても、学校で習う歴史や一般常識で耳にする歴史は、単なる「ひとつの説」
また「ひとつの見方」に過ぎません。しかし、歴史上の出来事にはいろいろな見方があります。

例をあげると、「明治維新」
一般には、幕末の侍が、倒幕側と幕府側の敵味方に分かれて戦い、最終的には手を結び、
近代化した今の日本の礎を作ったという美談。壮大なドラマになっています。

しかし、よく調べてみると、維新の背後には大勢の外国人や外国製武器の存在があります。
これら外国の存在なしに維新は起きなかった、といえます。

「明治維新」は、日本人だけで成し遂げたことでは、なかったのです!

どうやら、私たちには、自国の偉人を美化したい気持ちのあまり、自分自身のことが冷静に見えてないところが、あるようです。この時代を舞台にしたドラマが流行り、そのストーリーが真実であるとされがちですが、事実を大局的にとらえるには、あまりにも視野が狭いと感じます。

下の世界地図で見るとわかるとおり、現実に日本は世界の中ではこんな小さな国にすぎません。

世界の中ではこんな小さな島国の日本。私たちには、世界から日本を眺めてみる視点が必要です。そこでまず、世界のことをよくつかんで、それから日本を振り返っていくことにします。

世界の仕組みをしっかりと把握するために、何を元に探っていくかというと……

お金です。

お金は世界のすべてに関わっています。前述した「国内の不景気・円高・国家財政赤字・世界の経済不況」これらは、すべてお金の問題です。

また戦争にもお金が深く関係しています。戦争は一見すると、「政治・民族・宗教・国家間の問題」にみえますが、戦争を始めるには、大量の武器と兵隊を用意しなければなりませんから、大量のお金が必要です。

逆にお金がなければ、戦争をしたくても、戦争そのものが起こせません。

また一見無関係の環境問題でさえ、二酸化炭素排出権というお金の取引の問題です。これについては、また後ほど話します。

つまり、世界の問題はすべて、「お金」の問題なんですね。

そこでお金の流れから世界を探ってみます。すると複雑にみえる世界の諸問題の原因が、不思議なくらい簡単に浮かび上がってくるのです。

では、そもそも「お金」とは何でしょう?古くから、人々は生活に必要なモノを手に入れるための 「物々交換」には不便を感じていたようで、世界各地で、「価値を表す」ための様々な素材でできた「貨幣」を考案し、取引の際に用いてきました。

石でできたものから貝殻、金、銀、銅、また木製や陶器製のものまで作られていました。
中には刀の形をした刀銭というものまであったようです。

日本の歴史を振り返ってみても、「絹糸」「紙」「お米」「古代中国(明や宋)の銅貨」
「金の小判」や「銀の粒」など様々な素材の貨幣を流通させてきました。

そして、時代を経て、国々が貿易により交流が深まると、世界中で通貨システムが統一されていったのです。

現代の世界の国々で共通する通貨システムといえば、「紙幣とコイン」です。
どこの国も高額通貨には、「紙幣」を用い、低額通貨に「コイン」を用いていますが、 主役は何といっても「紙幣」です。

そして、この現在につながる紙幣による通貨システムは、中世ヨーロッパに起源をもちます。

紙幣が発明される以前のヨーロッパ諸国では、各国の国王や支配者が金・銀・銅でできた延べ棒やコインを発行し、国民はそれらで商取引をしていました。

中でも価値の高い「 金」は、柔らかいためにすり減ったり、盗まれる危険性があるために人々は丈夫な金庫を持った金庫番(当時の金細工職人や両替商)に自分の「金」を預けました。

そして、「金」を預けた代わりにその証明書として預り証を受け取ります。

そして後に、この「金」の預り証が、紙幣になっていくのです。

人々は、自分の「金」が必要な時に預り証を持って、金庫番の所に引き取りに行っていましたが、やがて、経済が発達してくると、商取引の際にいちいち金庫番のところに行くのが煩わしくなってきます。

そこで、人々は預り証でじかに取引をするようになります。預り証でモノを買ったり、モノを売ったときに預り証を受け取ったり……。

このように元々は、「金」の預り証であった「紙」が通貨としての機能を持ち始めたのです。

街の人々は、預り証で取引をするのが、あまりにも便利なため、ますます多くの預り証が市場に出回ります。こうして、預り証は人々の信用を得て、金庫番のところには、誰も自分の「金」を引き取りに行かなくなります。

その結果、自然と金庫番は、有り余るほどの「金」を手にするようになったのです。
そこで、金庫番は、はたと気づきます。

「ちょっと、待てよ。人々が一度に全ての金を引き取りに来ることはない。だから、預り証を勝手に発行してもばれないぞ!」

こうして元々は、「金」を預かる代わりに渡していた預り証。金庫番は、これを「金」を預けていない人にも発行し、利子をつけて貸すようになりました。これが銀行の始まりです。

 

その後、金庫番は一般市民に貸すより、国王に貸付するほうがはるかに儲かることに気がつきます。戦争のたびに、各国の国王は多額のお金が必要なため、銀行家に借りるようになりました。
戦争は、銀行家にとって一番うまみのあることでした。

もし国王が戦争に負けて借金を返せなくても、借金の担保である国王の財産・土地・建物・税金が銀行家のものになるからです。

こうして、戦争のたびに財産を増やし、力をつけた銀行家は、やがて王族と血縁を結び、いつのまにか貴族になっていったのです!

貴族となった銀行家は、さらに大きな権力をもち、手持ちの「金」よりずっと多くの紙幣を発行する権利を国王に認めてもらいます。

つまり、何の価値の裏づけもない紙切れに価値をつけて、人々にどんどん貸し出す権利を手に入れたわけです。

ただの「紙切れ」を貸す代わりに、人々からは家、お店、車、貴金属、宝石、家畜など価値のあるものなら何でも担保に取っていきます。それらは全て銀行家の財産になっていきます。

これが現在でも行われている「紙幣」と「銀行」の仕組みです。

この「お金の仕組み」がわかると、今の「世界の仕組み」と「本当の支配者」が理解できます。

そして、この現実の世界で、「紙切れの貸付、利子と担保の取り上げ」によって、世界中の富を手中に収めている代表的な銀行家が、「ロスチャイルド家」です。

ロスチャイルド家のことを簡単に説明します。

中世ヨーロッパの銀行家の中でも国王より、はるかに大きな権力を手に入れたロスチャイルド一族。初代マイヤー・アムシェルは1764年、ドイツでロスチャイルド商会を創設します。1800年代に入ると5人の息子をヨーロッパ諸国に派遣し、各国で銀行を創設させます。

固い結束で結ばれた5人の兄弟は、ヨーロッパ中を特製の二重底の馬車と高速艇で行き来し、世界一素早い情報のネットワークを確立し、現在の国際銀行の基礎を築き、ヨーロッパの金融を支配します。

 

中でも注目すべきは、イギリスに渡った三男のネイサン・ロスチャイルド。
彼は、1810年にロンドン証券取引所の支配者となり、「世界一の金融王」として君臨。
ヨーロッパ中の同盟国を相手に貸付をするまでになります。
さらに驚くことに、その5年後の1815年、イギリス連合軍とナポレオン率いるフランス軍との戦いに出資して、当時の財産300万ドルをさらに2500倍の75億ドルに一気に増やします。
戦果の情報をいち早く手に入れたネイサンは、他の投資家を出し抜き、一人勝ちしたのです。

これで、ほとんどのイギリスの大金持ちや名家を破産させ、ヨーロッパの金融を独占し、今のロスチャイルド財閥の世界支配の礎を築きました。

わずか100万円持っていただけでも2500倍したら、25億円にもなります。すでに世界一の金融王が、その財産をさらに2500倍に殖やしたのですから……。

今の金額で、想像もつかないくらいですが、いずれにせよ、彼はロスチャイルド財閥の礎を築いただけでなく、今に続く一族の世界支配権を確実なものにしたことは間違いありません。

つまり、世界の未来は、200年前のこのときすでに決まっていたのかもしれません。

有り余る富を手にしたロスチャイルド一族は世界最大の財閥を形成し、自分たちの強力な代理人であるJ・P・モルガンとJ・シフを支援し、アメリカに巨大なモルガン財閥、シフ財閥を形成します。さらに彼らから支援を受けたJ・D・ロックフェラーは石油王、ハリマンは鉄道王となり、それぞれ巨大財閥を形成します。

なかでも注目すべきは、J・D・ロックフェラー。彼は1882年にはアメリカの石油をほぼ独占して、そこを元手にアメリカ最大の財閥を築きあげました。

ここで大事なのは……

ヨーロッパを代表するロスチャイルド財閥とアメリカを代表するロックフェラー財閥。
世界の2大財閥です。

彼らについてよく知る専門家・研究家によれば、

「今は、力を増したアメリカのロックフェラーが世界を支配している」

「いや、今でも世界を実質、支配しているのは本家のロスチャイルドだ」

「彼らはいま敵対している」

「いや、本当は上の方で、手を組んで世界を支配している」

など諸説ありますが、いずれにせよ、世界のすべてが、彼ら世界の2大財閥の意向で動いていることは変わりません。さて、話はロスチャイルド家に戻りますが、彼らの持つ権力の中で一番大きな力が「お金を発行する権利」です。

みなさんは、「お金」は国が作っているもので、国の持ち物だと思っているかもしれません。

しかし、実際は、このお金を刷る権利は政府のものでは ありません 。
ロスチャイルド一族のものなのです。

先ほどの絵で説明した「中世ヨーロッパのお金の歴史」は作り話ではなく今も続いている現実です。 国には、中央銀行があります。中央銀行は国の通貨を発行し、利子をつけて政府に貸し付けます。

ロスチャイルド一族は、1815年にイングランド銀行を支配下に置き、1913年には、アメリカ連邦準備制度(FRB)、つまりアメリカの中央銀行をその支配下に置いています。

世界の基軸通貨ドルを発行する権利は、ロスチャイルド一族のもの(一部ロックフェラー家・モルガン家が所有)であり、アメリカ政府のものではありません。

これほど大きな力を持つロスチャイルド一族ですから、もちろん日本も大きな影響を受けています。日本の中央銀行である日本銀行は、持ち株の55%は政府が所有することになっていますが、残りの45%の株式の所有者は非公開となっています。うちロスチャイルド家が20%から40%(それ以上という説もある)は所有していると推測されます。

わかりやすく見るとこうなります。

ロスチャイルド一族は、国の中枢である中央銀行を所有し、そこからお金を発行し、政府に貸し付けて支配します。旧約聖書にこのような言葉があります。 

−借りるものは貸すものの奴隷となる−

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2012年5月12日土曜日

子どもたちはいじめをどのように考えているのか~日本の高校生が書いた「いじめ論」から~ - 論文・レポート


1.「ふつー」の子が書いた「いじめ論」の紹介

いじめは、子どもの生命をも脅かし、「この時間が早く過ぎればいいのに」というようなつらい時間をもたらすものである。また、いじめられ体験は、将来にわたって複雑な影響を及ぼすかもしれない。多くの子どもの日常生活にいじめが入り込んでいる今、いじめにどう対応するのかという課題は、現実にいじめに巻き込まれている子どもにとってこそ意味をもつものだろう。現代の日本の子どもたちは、いじめについてどのように考えているのだろうか。

 

ここで、高校生たちが書いた「いじめ論」1)を紹介したい。これは、2006年11月下旬、「いじめ」、「自殺」という言葉が繰り返し報道されていたころ、ある高校の必修科目「現代社会」の授業中に小論文の課題として書かれたものである。その際、「いじめ」についてやや突き放して、客観的に論じることという指示があった。さらに、全体を以下の4つのブロックに分けて論じるようにという課題設定があった。

1 「いじめ」事件「多発」をどう評価するか。
2 そもそも「いじめ」とは何か、その定義は何か。
3 本論として、「いじめ」はなくせる、なくせない、なくなる、なくならないか。
そして、その根拠は何か。
4 「いじめ」にどう対応するか。

この「いじめ論」を書いた高校3年生141名が通う高校は、大学進学にとくに熱心でも不熱心でもなく、全校を挙げての特別活動がとくに活発でも不活発でもない、首都圏にある普通科高校2)である。「いじめ論」を書いた生徒たちのなかには、いじめの被害者、加害者、傍観者としての実体験をもつ子も少なからずいた。

 

●<部内では、だいたい一ヶ月を目安に、人を無視してからかう「省き」があった。誰か一人を決め、ほかの部員は全員その人とは口をきかない。それが順番で回ってくるのだ。もちろんそれを指名していたのはn小から来た「いじめっ子」だった。私も最初は「いじめっ子」が怖くて、無視をされる側のことも考えず、「集団いじめ」の一人に入ってしまっていた。しかし、一年生の秋、私の番があった。誰も口をきいてくれなかったり、私の使ったボールは誰もさわらない...。すごく心が苦しかった。部活を辞めようとも考えた。そして何よりも、自分が相手にこんな思いをさせていたのかと思うと、とても悲しくなった>3)
●<みんながみんなしていたわけではないが無視したり、陰でこそこそと悪口を言ったりしていた。先生がいじめについて気づくと、みんなにそのことを話し一人一人謝らせたこともあった。しかし、その後もやはりいじめはなくならなかった>
●<前に、友達が悪口を言われたことがあった。仲の良い友達だった。辛い思いをしたのもしっている。だけど私は、その子のために何もしてあげることができなかった。何もしない自分も、いじめをしている人とかわらないのではないかと、あとで後悔した。そんなことにも負けない友達はとても強い子だと思った。いじめは自分ではしていないつもりでも、誰かを傷つけているのかもしれない>
●<小学生のころ、いじめを見たことがある。一人の女の子が、一人の女の子に継続的に嫌がらせをしていた。いじめられていた子は常に笑顔でいたためか、嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。いじめている子曰く、これは"ゲーム"なのだそう。周りの子や私は、いけないとわかっていても、気の強い彼女を止めることは出来なった。この問題はやがてクラスで話し合い、無事解決することが出来たが、やはり世の中は、弱肉強食だと感じた>

 

そして、<そもそも「いじめ」とはなんなのか。正直、私はこの論文を書くまで考えたことがなかった。だから、「いじめられる側」と「いじめる側」の気持ちがわからない>というように、いじめという単語が本人の意識に上ってくることさえもなかったのではないかと思わせるような子もなかにはいる。

 

「いじめ論」は、温度差はあるにせよ、さまざまな立場でいじめの現実をすでにくぐり抜けてきて、<高校生くらいになるといじめなんかほとんどなくなる>というように、おそらく現在ではいじめの渦中には巻き込まれていない子が大半であろう高校生たちが書いたものである。いじめ体験記4)とは違って、自分の気持ちにはあまり力点が置かれていない、いじめとは心情的にも環境的にもある程度の距離が保たれている文章が多い。


2.「いじめ」とは何か

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2012年5月10日木曜日

ポンコツ映画愛護協会『奪還 DAKKAN アルカトラズ』


主演のスティーヴン・セガールが製作にも携わり、香港からション・シンシンをファイト・コレオグラファーに迎えて撮ったアクション映画。
監督のドン・マイケル・ポールは俳優出身で、『ハーレーダビッドソン&マルボロマン』では脚本を手掛けていた。TVシリーズの演出経験はあるが、映画の監督はこれが初めて。
サーシャをセガール、フォーティナイナーズのボス(ワン)をモリス・チェスナット、ニックをジャ・ルール、その右腕(シックス)をニア・ピープルズ、フエゴをトニー・プラナ、トゥイッチをクルプト、リトル・ジョーをマイケル・"ベアー"・タリフェロ、ウィリアムズをクローディア・クリスティアン、マクフェアソンをリンダ・トーソン、レスターをブルース・ワイツ、ケスラーをマイケル・ マクグレイディーが演じている。

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2012年5月9日水曜日

クラークスビル (テネシー州) - Wikipedia


クラークスビル(英: Clarksville)は、アメリカ合衆国テネシー州北部、モンゴメリー郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である。州都ナッシュビルの北西約70kmに位置する。2010年国勢調査による人口は132,929人であり[3]、メンフィス、ナッシュビル、ノックスビル、チャタヌーガに次ぐ州第5の都市である。クラークスビルを中心としたクラークスビル都市圏はモンゴメリー郡、スチュワート郡、クリスチャン郡およびトリッグ郡の4郡にまたがっている。

クラークスビルは1785年に設立され、ジョージ・ロジャース・クラークに因んで名付けられた。クラークは当時のフロンティアであるテネシーを開拓し、アメリカ独立戦争では英雄となった者であり[1]、またルイス・クラーク探検隊を指揮したウィリアム・クラークの兄だった[4]

クラークスビルにはオースティン・ピー州立大学と新聞社の「ザ・リーフ・クロニクル」があり、またアメリカ陸軍の基地であるキャンベル砦に隣接している。クラークスビル中心街から約10マイル (16 km) の距離にあるキャンベル砦には第101空挺師団が駐屯しており、テネシー州とケンタッキー州の州境に跨っている。

市の渾名には「女王の都市」や「カンバーランドの女王」[5]や「新南部への入口」というものがある[1]。スローガンである「テネシーのトップスポット」は2008年4月に新しい「ブランド」として導入された[6]

[編集] 設立

クラークスビルとなった地域は1768年にトマス・ハッチンスが測量したのが始まりだった。ハッチンスは川の航行のための目印として、カンバーランド川とレッド川の合流点にある岩の多い崖をレッドペイント・ヒルと名付けた。1771年から1775年まで、郡の名前のもとになったジョン・モンゴメリーがカスパー・マンスカーと共に狩猟の旅の間にこの地域を訪れた。同年、リチャード・ヘンダーソンがオハイオ川とカンバーランド川の間の土地をチェロキー族インディアンから購入した。代償は馬と銃およびアルコールだった。この土地について、クリーク族、ショーニー族およびチカソー族など、地元の他の部族が自分たちの縄張りの一部であると主張したため、部族と開拓者の間の紛争を生んだ。

1779年、ダニエル・ブーンの「荒野の道」を通って、ジェイムズ・ロバートソンが一群の開拓者を東テネシーからこの地に導いた。ロバートソンは後にカンバーランド・ファーネスに製鉄所を造ることになった。1年後の1780年、ジョン・ドネルソンが一群の平底船でカンバーランド川を遡り、後にナッシュビルとなるフランスの交易拠点、フレンチリック(あるいはビッグリック)に向かった。この船がレッドペイント・ヒルに差し掛かったとき、モーゼス・レンフロー、ジョセフ・レンフローおよびソロモン・ターピンがその家族と共に別行動をとり、レッド川の方向へ向かった。この一団は今日のポートロイヤルに近いパーソンズ・クリークまで移動し、そこを開拓するために上陸した。しかし、その夏にインディアンに攻撃を受けて� ��退することになった。

クラークスビルは、アメリカ独立戦争の間にジョージ・ワシントン将軍の下で従軍し、戦後解体された大陸軍の兵士達によって一部開拓される町として指定された。戦争が終わったとき、連邦政府は兵士達に給与を払うための十分な資金を持って居らず、ノースカロライナ州議会は1790年に州境より西の土地を連邦の土地特許計画の用地して指定した。クラークスビルの地域は測量が終わり、区画化されていたので、開拓定着が可能な領土として考えられた。この土地は国のために尽くし、支払を受ける資格のある兵士への報償としてその家族ごと定着する土地に使われた。

クラークスビルの発展と文化は市民と軍隊との間に進行する相互依存に拠っていた。町の骨格形成は独立戦争の終戦の頃だった。南北戦争の時は、ヘンリー砦の戦いやドネルソン砦の戦いでの北軍勝利によって男性人口が激減した。多くの男性は北軍の捕虜収容所に抑留された。第一次世界大戦でも多くのクラークスビル出身者を失った。第二次世界大戦では後にキャンベル砦となるキャンプ・キャンベルが造られ、軍隊との結びつきが強化された。キャンベル砦を出発した兵士達はこの基地の形成以降、あらゆる作戦に採用された。

1784年1月16日、ジョン・アームストロングがノースカロライナ州議会にジョージ・ロジャース・クラーク将軍に因みクラークスビルという名の町を創設するよう議案を提出した。町が公式に設立される以前から区画は販売された。1785年10月、ロバート・ウィークリー大佐がマーティン・アームストロングとモンゴメリー大佐のためにクラークスビルの町の区分けを行い、ウィークリーはその任務のための区画を選んだ。彼はスプリング通りとメインストリートの北東角第20番区画を選んだ。町は140区画と44の非販売区画からなる20の街区で構成された。当初の庁舎はフロント通りと2番通りの間のフランクリン通り北側にある第93区画に置かれた。共同湧水はスプリング通りとコマース通りの北東角第74区画にあった。ウィークリーは1786年2月� �最初の小屋を建て、2月あるいは3月頃にモンゴメリー大佐が到着して小屋を建てさせたのが2番目の家屋になった。ジェイムズ・サンダースによる公式測量に従って、1785年12月29日、クラークスビルはノースカロライナ州議会によって設立された。この地域で設立された2つめの町だった。アームストロングは洪水に対する備えから、町をカンバーランド川を見下ろす丘に配置した。町は4エーカー (16,000 m2) の正方形12区画によって構成されていた。東西に走る主要通りは北からジェファーソン、ワシントン(現在はカレッジ)、フランクリン、メイン、コマースと名付けられた。南北に走る通りは川のある東からウォーター(現在はリバーサイド・ドライブ)、スプリング、第1、第2および第3と名付けられた。

この地域のタバコ交易が年々成長し、1789年にはモンゴメリーとマーティン・アームストロングがクラークスビルをタバコの検査場所に指定するよう議会に働きかけた。1790年、アイザック・ロー・ピーターソンが中心街の直ぐ北東にあるダンバー・ケイブの所有権を主張した。

1796年6月1日にテネシーがアメリカ合衆国の州に昇格したとき、クラークスビルとその東側の地域はテネシー郡と呼ばれた(この郡は1788年にノースカロライナ州によって創設された)。後にテネシー郡は現在のモンゴメリー郡とロバートソン郡に分かれ、この地域を開拓のために拓いた男達に因んで名付けられた。

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2012年5月7日月曜日

ホステージ: CINEMA E MUSICA di FLUFFY


【プロローグと感想】
ジェフ・タリーは、LAPDのスゴ腕交渉人だったが、
交渉の甲斐無く、犯人が人質を殺害し自殺を図るという
最悪の結果になってしまった一年前の事件以来、
LAを離れ、小さな町の警察署長として生活していた。
ある日、小高い丘の上にある
豪華な邸宅へ、3人の若者が忍び込んだ。
単に車を盗むつもりだった若者達だったが
警報を受け確認をしに訪れた警官がやって来た辺りから
歯車が狂い始めるのだった・・・・。

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結構お気に入りな映画
「スズメバチ」の監督、フローラン・エミリオ・シリの
ハリウッド進出第一作。

予告を観た時に、とっても「スズメバチ」的な香りがしたので
ちょっと楽しみにしていた作品。

画的には、同じ撮影監督であるからか、
質感とか陰影とかがモロ「スズメバチ」だった。
でも、主人公のタリーの心情を中心に描いたからか
アクション映画だと思って観ると
拍子抜けしちゃう作品でもある。

ブルース・ウィリスといえば、「ダイ・ハード」な訳だけど
ちょっと「ダイ・ハード」な感じの設定でもある。
その辺が凄くダブってしまう。

目に見える犯罪と、見えない犯罪が
同時進行していく。
目に見える方は、解りやすい様に見えて
一番サイコな青年マースの心は複雑。
まあ、今の犯罪犯してしまう若者って
ああいう感じなのかもしれないけど。

もう一つの犯罪については
これは、アメリカ映画なのに
フランス映画みたいな終幕。
フランスならこういう形でもOKだったかもだけど
アメリカ映画だってことを前提に考えると
多少不満は残るかな。

豪邸のシステムをもっと上手く使えばいいのにと思った。
あれじゃあ、あんまし意味無さ過ぎ。
細かい部分は、結構良くできているのに
それを組み合わせると、お互いを殺してしまう。
そんな感じで、惜しい!
って印象が強かったなあ。
全体の雰囲気としては好みなんだけど。

原作があって、相当評判良かったみたいなのね。
機会があったら読んでみようかと思ってます。

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2012年5月5日土曜日

琥珀好  201011


1年間でグアム島へ飛行機で到着する乗客全体の、約7割を占めるのはどこの国の人?→日本

4世紀ごろに設立した「世界最古の共和国」とも呼ばれるヨーロッパの国は?→サンマリノ

5階建て・70室という規模のものだった、1910年に完成した日本初の木造アパートの名称は?→上野倶楽部

10年間有効なパスポートを取得する時にかかる手数料はいくら?→16000円

11年連続でトップだった北海道の花咲港に代わり2009年にサンマの水揚げ日本一となった港は?→銚子港

19世紀初頭にグエン朝が王都を置いたことから繁栄した世界遺産にも登録されているベトナム中部の古都は?→フエ

21世紀になってから最初に国際連合に加盟した国は?→スイス
→2006年と、もっとも最近に国際連合に加盟した国は?→モンテネグロ

100円玉にデザインされている花は?→桜
→50円玉にデザインされている花は?→菊

110番の通報をしてからパトカーが現場に到着するまでの時間を何という?→レスポンスタイム

564mと在来線としては日本最長のプラットホームがある駅は?(写真)→京都駅

1000mを超える高さの断崖絶壁エル・キャピタンが有名な、世界遺産にもなっているアメリカの国立公園は?
→ヨセミテ国立公園

1620年にイギリスを発(た)ったメイフラワー号が到着したアメリカのプリマスは現在の何州にある都市?
→マサチューセッツ州

1665年に東本願寺が設立した「学寮」を起源とする京都の私立大学は?→大谷(おおたに)大学
→1639年に西本願寺が設立した「学寮」を起源とする京都の私立大学は?→龍谷大学

1728年に日本に初めて輸入され当時の江戸幕府将軍・徳川吉宗に献上された象は、現在のどこの国から来たものだった?→ベトナム

1810年に行われた皇太子ルートヴィヒの結婚祝祭を起源とする、世界最大規模を誇るドイツミュンヘンのビール祭りは?→オクトーバーフェスト

1842年に河口を発見した英国人ブラックウッドが乗っていた船の名にちなむ、ニューギニア島を流れる大河といえば?→フライ川(1,050 km)

1872年、新橋・横浜間に日本最初の鉄道が開通した時の横浜駅は、現在の何という駅?→桜木町駅

1872年に日本最初の鉄道が開通した時、新橋駅で行われた式典に集まった2万人の観衆に振舞(ふるま)われたのは?→赤飯

1882年に、日本最初の鉄道連絡船が運行された湖は?(地図)→琵琶湖

1891年に日本で初めて機械掘削(くっさく)が成功したことから「石油産業発祥の地」とされる、かつて新潟県出雲崎町(いずもざきまち)に存在した油田は?→尼瀬(あませ)油田
[掘削:土砂や岩石を掘り取って穴を開けること]

1895年に瀬木博尚(せきひろなお)によって創立された日本最初の広告代理店は?→博報堂
[東京都港区赤坂]

1905年ポーツマス条約が調印された9月5日を「ポーツマス条約の日」と定めているアメリカの州は?
→ニューハンプシャー州

1915年の焼岳(やけだけ)の噴火によって梓川(あずさがわ)がせき止められてできた長野県の湖は?→大正池

1925年アメリカ初の女性知事ネリー・ロスが誕生したのは何州?→ワイオミング州

1927年に日本で発行された片面のみが印刷された紙幣の額面(がくめん)はいくらだった?→200円

1928年に発効した、戦争において化学兵器や生物兵器の使用禁止を定めた国際条約は「"何"議定書」?→ジュネーブ(スイス)

1930年頃に大分県の別府温泉で「日本初の女性バスガイド」として活躍した人物は?→村上アヤメ

1935年に、電気代の滞納のため送電を一時止められるという事件を起こした武蔵野鉄道は現在の何という鉄道会社?→西武鉄道

1942年に予定されていた万国博の会場として作られ、そ� �略称が名前になった、イタリアの首都ローマ近郊にある新都心は?→EUR(エウル)(エウローパ)
[EUR:Esposizione Universale di Roma]

1948年にナウマン象の化石が発見された野尻湖(のじり)は何県にある?→長野県
[長野県上水内郡(かみみのち)信濃町(しなのまち)]

1949年の西部劇場映画にちなんでアメリカで出廷した兵士の無事を祈って町のあちらこちらに飾るリボンの色は?→黄色

1954年に起こった第五福竜丸事件の舞台となったアメリカの原爆実験地域は?→ビキニ環礁
[第五福竜丸:1954年3月1日、米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船の船名]

1960年代に発展途上国へ導入された農業技術革新を指す言葉は〇の革命?→緑

1960年代に「みゆき族」を生み出した「みゆき通り」があるのは東京のどこ?→銀座

1964年に歌手の井沢八郎がヒットさせたシングルの曲のタイトルは?→「ああ上野駅」

1967年10月1日に登場し新大阪と博多間を運行した世界初の電車寝台特急の名前は?→月光

1968年に起きた3億円事件で被害にあった現金輸送車はどこの会社のボーナスを輸送中だった?→東芝

1969年に、日本で初めてCD(現金自動支払機)を設置した銀行はどこ?→住友銀行

1970年に日本で最初にオープンしたハンバーガーチェーンは?� ��ドムドム

1972年10月に誕生した東名高速道路と中央自動車道を結ぶ日本初のジャンクションは?→小牧ジャンクション
[愛知県小牧市]

1972年に制定された放射性廃棄物その他の投票による海洋汚染の防止に関する条約の通称は?→ロンドン条約

1972年に成立した世界遺産条約を翌年に世界で初めて批准した国は?→アメリカ
[批准:条約を作成する最終手続で、国家が、ある条約の当事国となるための最終的意思を示す行為]

1972年の日中共同声明に調印した日本側の代表は田中角栄首相と外務大臣の誰?→大平正芳(おおひらまさよし)

1973年、日本で初めて「シルバーシート」を導入した路線はどこ?→中央線

1974年に「文藝春秋」に掲載された「田中角栄研究〜その金脈と人脈」で一躍有名になったジャーナリストは?→立花隆(たかし)

1976年のロッキード事件で航空機売り込みに関する資金流用について証言した、当時のロッキード社の副社長は?
→コーチャン

1977年6月20日にイギリスのアングリアテレビが放送した人類を火星に移住させる架空の計画を扱った番組は?→第3の選択

1980年代に自民党内に存在した二階堂進を会長とした派閥で田中角栄を実質的なオーナーとしていたのは何?
→木曜クラブ

1980年に世界初の公選による女性大統領が誕生した国はどこ?→アイスランド

1981年から毎年8月に日本最大のサンバカーニバルが開催されているのは東京のどこ?→浅草

1981年にフランス高速鉄道TGVが運行を開始したのはパリとどこの都市の間?→リヨン

1982年に国連環境計画の特別会合において採択された、開発に伴う公害などの環境破壊に関する採択のことを何という?→ナイロビ宣言

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2012年5月4日金曜日

Quick Appのアンドロイド スマホアプリ 結果181~200件目-オールアプリ


2012-05-03 04:27:36

無料

ボカシ効果が欲しい Instagram=ボカシ効果だと思ってるので早く実装してください

2012-05-03 09:34:45

無料

これは 素晴らしい!!

2012-05-03 12:13:11

無料

普通 Kis-My-Ft2とかとれないし…。

2012-05-03 14:49:02

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2012年5月2日水曜日

Japanese Eye On イギリスの人気料理ナンバー1!


以前日本にいた時、子どもの好きな料理トップ3というのを聞いた事がある。
それらは何かといえば、ハンバーグ、カレー、ラーメンなのだそうだ。伝統的日本食はみごとにひとつもはいっていない。これが日本人全体となれば事情は違って来るのかもしれないが、子供たちに限ればそうかもしれないなあ、とつい納得させられる結果ではある。
それではイギリスではどうなのだろうか?
最近BBCが行なった調査によれば一番人気は チキンティッカマサラ なのだそうだ。はたしてこれはいったいなんぞや?

日本人で知っている人がはたしているだろうか? もっともイギリスに来た事のある人にはわかるかもしれない。逆に言えばこれはイギリスにしか存在しない英国風インド料理なのである。要は赤っぽい色をしたチキンカレーを想像していただければいい。
ところでインドにはカレー(curry)という料理はない。カリーというのはスパイス等を使って肉や野菜を煮込んだ汁のことであるが、それを料理の名前と勘違いしたイギリス人がそのレシピを本国に持ち込み、やがて全世界に広まったのである。
その頃インドは大英帝国の植民地であり、異国情緒にあこがれた多くのイギリス人がかの地を訪れ、いままで口にしたこともないスパイスの効いた料理に度肝を抜かれつつもそれに魅了されていったのであった。
本国に帰ってからもあのスパイシーな料理を再び! と料理人に注文したのも無理はない。しかし、慣れないスパイスを現地人並みに扱えるはずも無く、試行錯誤であったであろう。そこであらかじめスパイスをほどよく調合したカレー粉なるものが発明されたのである。
さすがイギリス人は発明の天才! 
ついでに小麦粉を使ってとろみを付ける事も思い付いた。やがてそれが日本に伝わり、現在のような日本式カレーに発展していったのである。つまり日本のカレーはイギリス式なのであり、インド式ではない。インドにいった事のある人は本場のカレーがずいぶん水っぽいのに驚かされた事と思う。それにはこのような理由があったのである。もっとも中には反対に汁気のないものも存在する。

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2012年5月1日火曜日

「オッシーのトラベルフォト&旅日記」


2011年07月09日(土曜日)

オッシーがアメリカ・オハイオ州に来てからはじめての夏休み。会社の正式な夏休みを7月から8月の間に5日間(ばらばらでも連続でもいい)取れるため、土日を挟んで9連休で、五大湖周辺を周る旅を決行することに決めた。そのタイミングで、ジャイ子の弟のJ君(M2で来年卒業予定)と 、いとこのAちゃん(大学4年生で来年卒業予定)も、就活を終えたため、この旅に参加することに。J君とは日程調整の上で、この旅に参加したが、Aちゃんは急遽、アメリカに来たいとのことで、せっかくなら、今回いろいろ回るので、この旅に参加することを勧めたら、来てくれた。行動力あるなとちょっと関心。なんせ、今回のような大きな旅でないと、広いアメリカを回ることは出来ないし、それ以外で来てくれたとしても、あんまりアメリカを案� ��できない(オッシーもしょっちゅう休みを取れないし)。

今回使う車も、ジャイ子のCR-V(2.4L V4 4WD)に決めた。燃費はオッシー所有のアコードと比べると、そんなによくないが、ピンピンがいるから、外がよく見渡せる車にした。しかも、大人4人とピンピンの合計5名を考えると、アコードではかなり窮屈なので、それも考慮の上、決めた。CR-Vの方が車高が高いために、アコードよりもゆったりしている。ここのところ、ガソリン代が安くなってきたが、7月に入ってまた、高くなってきたが、以前の4ドル台にはまだ達しそうにないので、まーよしとしよう。

 

朝5時に家を出て、車は東へ向けてひたすら走る。なぜこんなに早く出たのかと言うと、ピンピンを寝せたまま移動するためだ。ピンピンが寝てるときにどれだけ移動できるかが、今日どこまでいけるかにかかっている。少なくともハリスバーグまでは行きたい。 途中、写真のように、霧がすごかったが、通常霧は地表面付近の空気が上層空気の温度に対して低い場合(逆転層という)に出やすく、大気の状態は絶対安定であり、この霧の上空は快晴となる。それは置いといて、今回の旅はほとんど快晴であった。

 

予期していたことが起きてしまった。3時間くらい走ったときに、ピンピンが起きてしまった。レストエリアでひとまず、ピンピンのおむつ換えと着替え、朝食を済ませる。車はそのまま出発。ピンピンは今日はおとなしいぞ。今回はピンピンのチャイルドシートを後部座席の真ん中に設置したため、ピンピンの両側にはいつも見慣れないJ君とAちゃんが座っている。そのためか。もしくは、猫被っているだけか。

このあたりの高速道路は有料で、日本みたいに高速道路に入るときに通行券を受け取って、出るときに距離に応じて料金を支払う。アメリカでこんなところがあるとは思ってもなかったが、東側では、結構有料道路が多い(事実ニューヨークまでずっと有料道路であった)。フリーウェイではないじゃないか!有料道路のためか、日本みたいにサービスエリアがあって、ガソリンスタンドと売店も併設されている。オッシーたちはそこに立ち寄って、アイスクリームを購入。シングルのワッフルコーンを頼んだのに、半端ない量のアイスが。さすがアメリカ!コールドストーンもそうだが、こっちは半端ないね!

 

車は順調に今日の最低移動距離目標であるハリスバーグに到着。まだ昼過ぎだ!ハリスバーグでは、ハーシーズ(HERSHEY'S)のチョコレート工場があるので、そこに立ち寄った。実は、初日は移動日と考えていて、あんまり観光する予定ではなかったのだが、旅行直前にここを発見したので、何があるかわからなかったが、とりあえず行ってみることに。行ってみると、人がたくさんいて、しかも車をとめるスペースがない。やっとのことでパーキングスペースを確保して、中に。

ここは入場料はかからないらしく、チョコレート工場とあるだけあって、チョコレートがたくさん売っていた。ほかにも、チョコ作成の体験(有料)が出来たりするらしいがオッシーたちは興味がなかった。

P.S.ハーシーズのチョコはオッシーたちが普段からよく食べていたもので、こんなところに工場があるなんて知らなかった。中に入って知ったが、キットカットも作っているらしい。

中では、フリーのライドに乗って、チョコレートが出来るまでをレプリカみたいなものを見て知れるようになっていた。結構本格的に作られていて、乗っている時間も結構長かった。意外に楽しくて、みんな大はしゃぎ!。ライドの最後に写真撮影があって、その写真を記念に買うことが出来る。パーキング(3時間まで)も無料なので、これくらいはいいかと思って、写真データを購入。お土産は、これからの車の旅で、チョコレートはちょっと溶けちゃう!ってことで、少しだけ購入して、チョコレート工場を後にした。

 

ハリスバーグと言えば、これ!世界3大原子力発電所事故のひとつであるスリーマイル島原子力発電所へ。結構近くまで行くことが出来た。でも、原子力発電所を見物しているのはオッシーたちだけであった。近年の福島の原子力発電所の件で、脚光を浴びているかと思ったが、そうでもなかった。オッシー的には、ハリスバーグといえばこれが思い浮かびますが。。。

 

まだ時間があったので、車は東へ。今日はフィラデルフィアの郊外で宿を取ることに。途中のレストエリアでクーポンをゲットしていたので、それを見てジャイ子が予約を入れた。今日の宿はMotel6にした。アメリカではかなり有名で安いチェーン店の宿だ。クーポンでも一番安かったので、それにしたが、前の旅行でも体験した、「クーポンで一番安い」=「見つけにくい」が的中して、道を通り越したりして、やっとのことで、Motel6に到着。部屋はAちゃんが別の部屋で、オッシー&ジャイ子&ピンピン&J君は同じ部屋にした。やっぱりオッシーたちと一緒はやりにくいよな?!

夜は近くのモールの中にあるフードコートで、それぞれ食べた。J君とAちゃんにはオッシーたちお勧めのChick-fil-Aのチキンバーガーを食べてもらった。ここのバーガーのチキンはかなりおいしく、オッシーたちが絶賛!

夜は早く寝たが、案の定、ピンピンは夜遅くまで起きていたそうだ。車の中で寝てたので、そりゃそうだ!

 

 

2011年07月10日(日曜日)

朝は車でフィラデルフィア中心部へ。そこには、独立記念館(世界遺産)という有名な建物がある。フィラデルフィアは昔アメリカの首都だったところで、トーマスジェファソンが独立宣言に署名したところらしい。オッシー歴史はあまり詳しくありません!
中に入るにはツアー(無料)に参加しないといけなくて、参加したが、ピンピンが大きな声でしゃべるので、建物の中で声が響き、「You have to leave.」と言われてしまい、外へ追い出された(泣)。おい、ピンピン頼むぞ!

 

アトランティックシティーに向けて車は東へ。アトランティックシティーは大西洋に面していて、規模は小さいが、東のラスベガスといわれるところで、カジノと大規模なホテルが立ち並ぶ。

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